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説教

早稲田教会で語られた説教をテキストと音声データで掲載します


2020年5月10日

「心を一つに」 マタイによる福音書14:22〜33
 奥山京音伝道師

 
〈聖書〉マタイによる福音書 14:22〜33

(22)それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。(23)群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。(24)ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。(25)夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。(26)弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。(27)イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」(28)すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」(29)イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。(30)しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。(31)イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。(32)そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。(33)舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。

 
 日本伝統芸能である能楽の演目の中に、「羽衣」というものがあります。春の朝に、三保の松原に住む漁師、白龍と言う名の男が釣りに行った際に、松の枝に美しい衣がかかっているのを見つけ、家宝にしようと持ち帰ろうとします。そこへ天女が現れ、返すように願います。初めは聞かない白龍でありましたが、「羽衣がなくては、天に帰れない」と悲しむ天女に心を動かされ、天女の舞いを見せてもらうことを条件に衣を返すことにしました。羽衣を着た天女は美しい舞いを見せて天に帰って行きます。これが「羽衣」の大体の物語の流れです。「天つ風 雲の通ひ路 吹き閉じよ をとめの姿 しばしとどめむ」この和歌に聞き覚えのある方もおられるでしょう。「羽衣」は百人一首にも出てきており、先ほど詠んだのは、その「羽衣」の中に出てくる一幕です。
 この物語の中で「疑い」について触れているところがあり、それはこの演目の見どころの一つともなっています。天女に舞を見せることを条件に羽衣を返すことにした白龍に対して、天女はまず羽衣が無くては舞いが見せられないと言い、先に羽衣を返すことを願いますが、白龍はそれを拒否します。天女が舞いを見せずに天に帰ってしまうことを白龍が恐れたからです。そんな「疑い」の心をもつ白龍に対して天女は「いや疑いは人間にあり、天に偽りなきものを」と応えるのです。「偽りなき天」に対して悲しいかな人間はそれを「疑う」というのです。このように「疑い」は常に私たち人間の間に根深く存在するのです。
 
 さて、本日私たちに与えられました聖書箇所においても「偽りなき天」、すなわち「真実なる神」とそれに対する人間の「疑い」が色濃く影を落としています。いわゆる「イエスの水上歩行」と呼ばれる箇所であります。
 この箇所を読んだ時、一つの疑問が浮かび上がります。それはなぜ、弟子たちは出発前に嵐を予測することができなかったのでしょうか。またなぜ、嵐に遭遇したときに適切に対処することができなかったのでしょうか。イエス様に命じられ船に乗った弟子たちの多くは、ガリラヤで漁師をしていました。その弟子たちが、荒波に対処できずにただ不安に陥るとは考えにくいことです。長年の経験から今後の天気を予想することもできたのではないでしょうか。おそらく彼らは彼らなりに自分たちの経験と知見によって船出を判断したのでしょう。しかし人間には自然の動きを完ぺきに予想することは難しく、ここでの荒波は人間ではどうにも対処できないほどのものだったのです。彼らは完全にその自然の猛威に圧倒されてしまうのです。そこへ、イエス様が湖上を歩いて彼らのところへやってくるのです。
 
 マタイ8章でも、今回の箇所のようにイエス様が嵐を静める場面が記されています。ただし今回の箇所と違って8章では、イエス様は弟子たちと一緒に船に乗っています。湖に激しい嵐が押し寄せ、船が波に飲み込まれそうになります。弟子たちは眠っているイエス様を起こして彼に助けを求めるのですが、イエス様はそんな弟子たちに対して「信仰の薄い者たちよ」と叱責を与え、嵐を静めるのです。この時、弟子たちは風や湖さえも従わせてしまうイエス様の御業に驚きましたが、イエス様が神の子であるとは考えませんでした。そして今回の箇所である14章において再び船は湖で波に悩まされることとなります。この8章と14章はそれぞれ独立した物語ではなく、8章は14章を引き立てるための重要な役割を持っています。8章でも14章でも嵐に悩まされ困りはてた弟子たちはイエス様にむかって「主よ」と呼びかけるのですが、弟子たちがイエス様の御業に驚いたところで物語が終わっている8章に対して14章ではイエス様の御業を目撃した弟子たちは「本当にあなたは神の子です」という信仰告白を口にしているのです。この世の荒波の只中にある教会にとってどのような困難な状況においてもイエス様こそが救い主であることを、自らの経験を通して受け止めた弟子たちのように、私たちもまた、そうした救いの出来事を受け止め「イエスは神の子」との信仰告白へと導かれるのです。
 イエス様が湖上を歩いたのは、詩編77編20節、ヨブ記9章8節、イザヤ書43章1節-2節、16節などで見られますように、神様が水の上をも踏破するという旧約聖書の信仰を背景にみることができ、さらには弟子たちに対するイエス様の言葉である「エゴー・エイミー、わたしだ。」という言葉は旧約聖書の中でも神様が現れる時に用いられる重要な定型句です。ここでイエス様が弟子たちに端的に「わたしだ」と言われたのは、ただ自分に気づかせるためではなく、それを語るイエス様を通して神様の存在をあきらかにするためだったのです。
 
 さて、イエス様の御業を目の前にして、信仰心を高められたペトロはイエス様に向かって願います。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」
 実に大胆な言葉です。「激情家」のペトロらしい言葉と言えるかもしれません。しかしペトロは決して、イエス様の許しなしに傲慢にも湖の上を渡ろうとしたのではありません。ペトロはイエス様が許すのであればイエス様の御業に与ることができることを信じ、だからこそイエス様に求め願ったのです。そして、イエス様もペトロの、神様を強く信じ求め近づこうとする姿勢が彼の強い信仰から出たものであることを喜び、「来なさい」(29節)とペトロに命じるのです。「ペトロは船から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。」とあります。船からイエス様のもとまでがどれほどの距離であったかはわかりませんが、ペトロは大波の中をイエス様の方へ進み出るのです。それはペトロのうちに主なるイエスへの一途な信頼があったからです。しかし、これはただ単にペトロの信仰心が素晴らしいものだと称賛するものではないのです。それほどまでに主イエスもまたペテロのこの信仰を喜ばれていることが重要なのです。私たち人間の強い信仰心、一途な神様への思いを神様はお喜びになるのです。そして、本来ならば、水の上を歩くどころか立つこともできない人間をもその上を歩かせてしまうほど、神様の御力は人間の予想をはるかに超えるほど偉大なものなのです。
 
 しかし、同時に私たち人間はとても弱い存在でもあります。ペトロも、例にもれずその内の一人でした。イエス様に招かれて水上歩行を果たしたペテロでしたが、一度は高められたはずのペテロのその信仰は実に弱いものだったことが露見するのです。
 一旦は確かにペトロはイエス様と並んで歩くことを強く求め願いました。しかし、灰色の高波がたつ湖の姿をみて、今、まさにペテロ自身がその渦中にあるはずの神様の御業よりも、ペトロは強風を恐れたのです。自分が体験している神様の御業よりも、ペトロは目の前の「強い風」に恐怖し、保身を考えてしまったのです。これはもしかしたらペテロの漁師という職業とも関係があるのかもしれません。ペトロは漁師であったために、その長年の経験上湖上の「強い風」がどれほど危険なものであるのかを骨の髄に染み込むほどに知り尽くしていたので、咄嗟に自分自身の保身を考えてしまったのでしょう。それを覆すことがペトロはできませんでした。本来、ペテロは自分自身の保身によってイエス様への信仰を見失うのではなく、イエス様の命令から離れずに信仰をさらに深めることが期待されていたはずです。強い風を見ても、嵐の中にあっても、神様の御業を前にして畏れるものは何も無いと強く信じ、人間には理解することのできない偉大なる神様の御業を信じるべきだったのです。
 
 ペトロの薄い信仰に対して、イエス様は「なぜ疑うのか」(31節)と語りかけます。ギリシア語の言葉では「疑う」という言葉を意味している単語は「二つの方向に歩んでいく」という意味も含まれています。他にも、21章21節に使われている「疑う」という語は「バラバラに考える」という意味が含まれています。このように、一つの方向や一つの考えではなく、注意や意識を多方面に拡散させていることが「疑い」という言葉の背後にあるのです。すなわち「疑う」とは心が一つになっていない状態と言ってもいいでしょう。
 ペトロは一方で神様の御業について考え、もう一方で自分の長年の経験と知識から得る風について考えたのでした。その分かたれた思いの中でペトロの心は、神様から離れてしまうのです。神様に心を向けつつも、その一方でこの世の「現実」に気を取られてしまうとき、ペトロは水の中に沈みそうになるのです。ヤコブの手紙1章6節以降には「いささかも疑わず、信仰をもって願いなさい。疑う者は、風に吹かれて揺れ動く海の波に似ています。 そういう人は、主から何かいただけると思ってはなりません。心が定まらず、生き方全体に安定を欠く人です。」という勧めが語られています。「心が定まらない」、「二心」であるということは、人の心が二つの心を胸に抱くと、それぞれの方向に傾斜してしまうことです。ペトロが湖に沈んでしまった姿がまさに傾斜した人間の末路を表しています。傾斜することなく、心が分かれるのではなく、一途に神様を信じ、一心に神様を思うことが私たちには求められていました。しかし、まさにその「疑い」の只中で、今や自分が荒波に沈まんとしたそのとき、分かたれていたペトロの思いはくっきりとした焦点を結びます。「主よ、助けてください!」。「主よあなた以外に真の救いはありえません。今、お救いください」と。その圧倒されるそうになる現実の中で、ペトロは主イエスに信仰を向けるのです。ペトロはこうして荒波から救い出されるのです。
 今回、私たちに与えられました箇所は、8章とは異なり、最後に弟子の信仰告白へ結ばれています。今や弟子たちはイエス様の御業を通して神様を見上げ、イエス様が神様から出たお方であり、その全生涯が神様に結びついているものであるとの確信を持つにいたるのです。私たち人間はしばしばこの世の「現実」に目を奪われます。そればかりか、それらに圧倒されるのです。
 
 これまで、皆様の心を一つにしましょうと申し上げて参りましたが、それ以前に私自身の持つ心が一つになっていたか、立ち返りました。新型コロナウイルスの感染者は減少しておりますが、未だ取り組むべき課題や議論があり、依然と警戒を解くことはできない状況です。テレビでは、ウイルスに関してのニュースが流れ、心に不安だけでなく疲れが出てくるこの頃であります。一心に神様への思いを向けたくとも、現状を見てしまうと不安、恐れ、疲れなどに心が他方へ別れてしまいます。期間が長くなればなるほど、少しずつ出てくるのは、「疑い」の心です。冒頭でお話ししました白龍のように、「偽りなき天」に対して、一体いつまで続くのか、なぜこんな目に合うのか、と弱く脆い私は「疑い」を持ってしまうのです。このように私の信仰心はペトロのように薄いものかもしれません。しかし、そんな愚かな人間のために、神様はひとり子をお与えになったのです。ひとり子を十字架にかけるほどに私たちを愛してくださったのであります。ならば、私たちができることは、ただそのことを一途に信じ「主よ、助けてください!」「どうぞ、信仰の弱い私を!」と神様に叫び声をあげることなのであります。「疑い」ではなく「一つの心」を持って共に主に使える人生を歩みたいものであります。