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説教

早稲田教会で語られた説教をテキストと音声データで掲載します


2020年5月24日

「私たちの避け所」 詩編 46:2〜12
 奥山京音伝道師

 
〈聖書〉詩編 46:2〜12

(2)神は我らの逃れ場、我らの力。苦難の時の傍らの助け。
(3)それゆえ私たちは恐れない 地が揺らぎ 山々が崩れ落ち、海の中に移るとも。
(4)その水が騒ぎ、沸き返り その高ぶる様に山々が震えるとも。
(5)川とその流れは神の都に いと高き方の聖なる住まいに喜びを与える。
(6)神はその中におられ、都が揺らぐことはない。夜明けとともに、神は助けをお与えになる。
(7)すべての民は騒ぎ、もろもろの王国は揺らぐ。神が声を出されると、地は溶け去る。
(8)万軍の主は私たちと共に。 ヤコブの神は我らの砦。
(9)来て、主の業を仰ぎ見よ。主は驚くべきことをこの地に行われる。
(10)地の果てまで、戦いをやめさせ 弓を砕き、槍を折り、戦車を焼き払われる。
(11)「静まれ、私こそが神であると知れ。国々に崇められ、全地において崇められる。」
(12)万軍の主は私たちと共に。ヤコブの神は我らの砦。 

 
 今から2年前の2018年のことです。私は当時、同志社大学神学部の大学院2年生で京都に住んでいました。その年の9月「非常に強い勢力」で台風21号が近畿地方に上陸しました。この台風21号は、暴風や高潮をもたらし、近畿地方、東海地方を中心に200万軒を超える大規模な停電が発生しました。気象庁の記録にある潮位や風速は、数字だけでは理解しづらいですが、過去最高、観測史上1位という記録を見ると、「非常に強い勢力」であることが想像できます。
私が京都で住んでいたのは、観光名所である鴨川からも、山からも離れたところ、比較的安全な場所で、しかもマンションの7階だったことから、ニュースで報道されたような深刻な被害は起こりませんでした。はじめは、台風21号が「非常に強い勢力」のまま上陸したことに危機感が持てず、どこか他人事のように聞いていました。というのも、京都では突然バケツをひっくり返したような大雨が通り過ぎることが日常茶飯事であったため、「非常に強い勢力」という言葉に実感を持てずに、携帯に送られる緊急避難地域の連絡も確認せず過ごしていました。
夕方頃でしょうか。部屋で大人しくテレビを見ながら過ごしていると、突然停電が起こりました。強風のため、電柱に木の枝が引っかかり私が住むマンションの通り全ての建物が停電になりました。京都で暮らしていてはじめて停電になり、状況がつかめずに1階に降りて様子を見ると、自分が住むマンションが建つ側の通り全体が真っ暗になっていました。街灯も消え、電柱には強風で飛ばされたのか木の枝が引っかかっていました。向かいの通りは電柱に問題がなかったため、電気も問題なく点いていました。
夜遅くに電気は戻り、次の日の朝は通常通り過ごせました。およそ7時間の停電でした。向かいの建物の光を見ながら家に一人暗い部屋で過ごすのは精神的に苦しかったのを今でも覚えています。頼れる家族が近くにいない寂しさ、暗い部屋の中で一人過ごす心細さ、いつになったら電気が元どおりになるのか先が見えない状況に、今なら大袈裟だったと笑うことはできますが、当時はこの状況がずっと続くのではないかと不安に押し潰されていました。拙いものですが、私にとっては忘れられない恐怖の体験です。
 こうした人間の力ではどうしようもできない状況のときに、「神様、助けてください」と切に求めることが理想ではありますが、不安の中に在る時、神様が差し伸べる手にすがるという考えに至らず、ただただ暗闇に恐怖し、無力な自分を必死に守るように身を縮ませることしかできませんでした。
停電の中過ごしていた自分の心境を思い起こすと、不安を抱えるときに神様の助けを求めるどころか、夕日が落ちて部屋がどんどん暗くなっていくように、自分の心も暗く深みに嵌っていきました。自分の信仰心が強いと思ったことは一度もありませんが、自分の信仰の弱さ脆さを改めて痛感した瞬間でした。
 
 さて、本日の聖書箇所は神様に対する信仰告白、神様の御業を讃える力強い詩であると神学者は語ります。詩編46編2節をもう一度拝読します。
「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。」
 どのような苦難の中にも、神様は私たち人間と共にいてくださり、私たちを助けてくださる。と筆者は強く確信を持って語っています。「必ず」と断言してしまうほどの力強い信仰に圧倒されるのと同時に、自分の信仰の弱さと比べ眩しく見えてしまいます。
こうした力強い信仰はイザヤ書の中でも見られます。紀元前701年にユダ王国の首都エルサレムはアッシリアのセンナケリブ王が率いる大軍に包囲され、危機的状況の中にありました。敵が大国であること、また圧倒的な軍事力にエルサレムの民だけでなく権力者までもが動揺し、恐れていました。その中、預言者イザヤは「まことに、イスラエルの聖なる方 わが主なる神は、こう言われた。『お前たちは、立ち帰って 静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある』」と神様への信頼を求めました。イザヤは、イスラエルを守るのは、軍事力でも大国でもなく、シオンに住む万軍の主、神様であることを信じ、人間が作り出した軍事力も大国も神様の前では恐れるに足りないと指摘しました。
 大軍に包囲され危機的状況の中、イザヤのように真っ直ぐに神様を信頼することができる人間は一体どれほどいるのでしょうか。私はと言うと自慢できることではなく、悲しいことではありますが、このような信仰心を持つことはできないと感じています。危機的状況に陥ればエルサレムの民のように動揺しますし、神様ではなく他国の軍事力に頼ろうとしたヒゼキア王のように、神様以上に勝るものはないと信頼できずに手近なものに気を取られてしまいます。人間の目には危機的状況、どうすることもできない状況の中で、神様に依り頼むイザヤの信仰心が印象的です。
 
 詩編46編2節もイザヤのように神様に依り頼む姿が強く描かれています。イザヤは大国と軍事力によって危機的状況の中にあっても人間が作り出した力より、神様の偉大な御業を信頼しました。46編を歌った詩人も「地が姿を変え 山々が揺らいで海の中に移るとも 海の水が騒ぎ、沸き返り その高ぶるさまに山々が震えるとも。」必ず「わたしたち」と共にいてくださる神様を信じて決して恐れないと断言しています。ここで言う「地が姿を変え/山々が揺らいで海の中に移るとも」と言うのは比喩として戦争、もしくは自分の経験の危機的状況と関連づけて読む人、文字通り地震や天変地異と解釈して読む人とそれぞれあります。どちらの読み方も間違いではありません。ここでの問題は、神様が創造された世界が混沌の中に戻ることです。無力な人間にとっては世界の混沌は根底的危機であり、逃れることも立ち向かうこともできないほど圧倒される危機であります。そのような危機に直面しても、「わたしたちは決して恐れない」と信仰告白を詩人はしました。イザヤも詩編46編の詩人も、避け所が「神様」であるからこそ、人の目には危機的状況に陥り、もうどうすることもできないと誰もが絶望してしまうような状況の中にあっても、何も恐れることがないのです。
 私たちもまさに今、人間の力ではどうすることもできない危機的状況に陥っていると言えるのではないでしょうか。
 
 新型コロナウイルスに関する情報が毎日報道されています。感染者数が減少したことにより、いくつかの都道府県では緊急事態宣言が解除されました。少しずつ収束に向けて道が明るくなってきたように思えます。その一方で、検査を希望しても保健所やかかりつけの主治医からは許可が下りず検査を受けることができない事例や、1日に受けられる検査数に限界があることを聞くと、報道されている情報に不信感を抱き、不安を完全に拭い去ることができません。終わりが全く見えないという状況ではなくなりつつあるのかもしれませんが、専門家からは第二波・第三波を懸念する声も発せられています。
病院の関係者、また政府・行政関係者の方々が惜しみなく努力し、尊いお働きをなされているので、これは少々贅沢な悩みなのかもしれませんが、正直な気持ちを申し上げますと自粛によって人と会うことができなくなったことは、精神的に大きな負担があります。
先週の日曜日、教会でもZOOMを用いてリモート・ティーアワーを開きましたように、現在ビデオ通話をしながらお茶やお菓子をつまんで話すことが増えています。InstagramやYouTubeでは「一緒にご飯を食べよう!」と題して芸能人が動画配信をしています。こうしてビデオ通話をして相手の顔を見ながら、それぞれ自分の家でお菓子を食べたりご飯を食べたりするという新しい関わり方があります。久しぶりに友人の顔を見ることは大変嬉しく思いますし、リモートは普段遊びに行くように移動時間がなく自宅ででき、入退室も自由で参加がしやすいことから、いつも忙しくて中々予定が合わない友人とも話すことができる長所があります。けれども反対に、顔を見るとやはり会いたいと思う気持ちが強くなるものです。ビデオ通話をした友人全てに共通した話題は「最後に会ったのはいつだったか」でした。
 教会でもそういった話は聞きます。「あの方に最後に会ったのはいつかしら。」「あの人は元気にしているだろうか。」「次会えるのはいつなのか。」
次に会うのがいつか明確にわからないことが不安を煽りどんどん気持ちが暗くなっていきます。この気持ちの暗さは、冒頭でお話しました京都での一人暮らしの時に経験した停電と同じ気持ちでした。先が明確になっていないことが余計に不安を増大させ、明るくしようと試みても自分一人の力ではどうすることもできず、ただただ暗闇の深みに嵌っていく一方であります。一人暮らしに限らずとも、ご家族と同居していたり、ルームシェアをしていらっしゃる方でも暗闇の深みに嵌ってしまう時がおありかと思います。
 
 人間の力には限界があります。神様の御業に比べれば、人間など全くの無力だと思います。私たちは日常の中で様々な苦難を経験します。暗闇の中にいるときもあります。苦難による悲しみ苦しみ、暗闇による不安、恐れ、それらは全て人間では完全に拭い去ることができません。支えがなくては耐えることができません。私たちが日常の中で危機的状況に陥った時に避難所へ行くように、自分の内側、心が危機的状況に陥った時に行くのが「避け所」である神様のもととすべきだと思います。
「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。 」だからこそ私たちは「地が姿を変え 山々が揺らいで海の中に移るとも」決して恐れることはないのです。
 私は恐れの中に在る時、暗闇の深みに嵌った時、どうしても詩編46編のような信仰を忘れてしまいます。自分の人間関係は恵まれていると自負していますが、心に疲れが出ている時孤独を憶えます。自分を支えてくれる周りの人だけでなく、自分の心の支えである神様をも見えなくなってしまいます。
 そうした暗闇の深みに嵌った時、引き上げてくださる救い手が必要です。また、行く当てもなく彷徨っている時、どこへ行けばいいかわからず、右往左往している時に、導いてくださる導き手が必要です。「避け所」に辿り着くことができない信仰心が弱く罪深い人間のために、神様は大切なひとり子であるイエス様をお与えになりました。自分自身の無力さを認め、信仰の弱さと向き合った時、確かな光をもたらして神様のもとへ導いてくださるのがイエス様だと考えます。
 理想を言えば、目に見えなくとも自分が困難な時にあっても、詩編46編のような信仰を持つことが神様の子としての歩みなのかもしれません。けれども、現実はそうした確固たる信仰を持てずに、苦難の中でどこへ向かえばいいかわからず右往左往し、暗闇の深みに嵌り動けずにいるのではないでしょうか。そうした弱さにイエス様は大変悲しまれていますが、だからと言って小さき者を切り捨て、弱き者を見捨てるのではなく、深い愛と憐れみを持って、どんな時でも私たちと共にいてくださると心から信じたいものであります。
 一人では辿り着けない「避け所」もイエス様の導きのもと、私たちは神様のもとへ帰ることができるのではないでしょうか。暗闇の中から出られない時、イエス様の導きを頼りに、私たちの「避け所」である神様の下へ立ち帰ることができるようイエス様と共に歩んでゆきたいと願うものであります。