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説教

早稲田教会で語られた説教をテキストと音声データで掲載します


2020年6月7日

「静かに穏やかに」 マルコによる福音書9:49〜50
 古賀 博牧師

 
〈聖書〉マルコによる福音書9:49〜50

(49)人は皆、火で塩味を付けられる。
(50)マルコによる福音書/ 09章 50節
塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい」。 

 
 今日は新約聖書から「塩」を巡っての主イエスの教えを、招詞(招きの言葉)、そして本日の聖書箇所と二つ読んでいただきました。
 礼拝の招詞としたのは「マタイによる福音書」5章13節。「地の塩・世の光」との宣言の最初に置かれている「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである」という主イエスの言葉です。
 「マタイによる福音書」の5章から7章に、主イエスの教えが「山上の説教」という形で纏められています。主イエスの祝福の言葉から始まるこの一連の教え、ここからキリスト者たちは自らの生き方や使命について学び取ってきました。 
 招詞としたみ言葉を含む「地の塩・世の光」という宣言も、代々の教会において、キリスト者の目指すべきあり方として語られることの多いみ言葉です。
 「地の塩・世の光」と言われるように、塩と光はワンセットだと私たちは認識していますが、実はこれはマタイ福音書の編集によるもの。「塩」と「光」は本来はそれぞれの別個の教えだっただろうと言われています。今日取り上げる「マルコによる福音書」9章49節以下には「塩」に関しての教えだけが登場しますし、「ルカによる福音書」も塩について14章34節以下に独立的に語られています。
 マタイ福音書は、「塩」と「光」の二つの教えを合体させて、「あなたがたは、地の塩である。...あなたがたは、世の光である」という宣言としたのです。私たちに「地の塩となってほしい。世の光となってほしい」と主イエスは勧めていらっしゃるのではなく、キリスト者・教会はそのままで「地の塩」「世の光」なのだとの宣言、これが「マタイによる福音書」の証言の大きな特徴です。
 
 さて、聖書は「塩」について主に三つの効能を強調してこれを語っています。その三つとは、第一に味付けを巡って、第二に防腐剤としての働き、第三に清めのための使用です。食物の味付け、腐敗防止、穢れからの清め、そのような効能で聖書は「塩」を捉えています。そしてこうした「塩」の働きの特徴は、そのままにキリスト者に求められているあり方や生き方の目標だとも言われています。
 「マタイによる福音書」は、特に腐敗防止と清めの作用に注目しての宣言です。そして、旧約聖書には「塩の契約」というものが登場します。「塩の」と冠することで、主なる神との間に結ばれた契約、その不変性と永遠性を表現しようとしていることを思います。これも塩の確かさ、それが純粋なものであれば、長く保存でき、そして腐敗を防止する、そんな効能から導いてことでありましょう。
 純粋で混じりけのない「塩」は腐らず朽ちない、このような「塩」のあり方とそれが有する腐敗防止作用を主眼として、マタイ福音書は教会の働き、キリスト者の使命として語り継ごうとしているのではないでしょうか。
 「地の塩」という主イエスの宣言を、パウロの語りと重ねて理解する人々もあります。「ローマの信徒への手紙」12章の冒頭で、パウロは神に喜び受け入れられる真の礼拝を捧げ方を宣べ伝えています。その中に「あなたがたはこの世に倣ってはなりません」との勧めが登場します。この箇所は、口語訳聖書では「あなたがたは、この世と妥協してはならない」と訳されていました。このように世に倣わない、世に一切妥協しない、揺るぎなく純粋な「塩」となって、この世の腐敗防止の働きを担い、この世を清める、それが「地の塩」として立てられているキリスト者の大切な使命だと語る人があります。私たちは一つには、こうした「塩」として機能するように、主イエスに呼びかけられ、神に招かれていることを心に留めたいと願います。
 
 こうしたことに加えて、もう一つの「塩」の働きも憶えたいと願います。
 食品栄養学者である友美さんは、その著書『食べものから見た聖書』の冒頭に「塩の味と塩の役割」という一文を置いていらっしゃいます。
 友美さんは、若き日に「マタイによる福音書」で「塩」に関する主イエスの宣言に触れ、ここで主イエスは「塩」が持っている強い味をはっきり示すことをこそ語り出そうとしているのだろうと理解してきたというのです。「塩という強い味が、他の味におおいかぶさるイメージ」で、揺るがない・妥協しない、そんなあり方を「塩」を通じて主イエスは教えておいでなのだと受けとめておられたとのこと。
 ところが、食品研究に長年携わる中で、ここの読み方が変わったのだと記し、「塩の対比作用」というものを紹介していらっしゃるのです。
 “塩の持つおもしろい性質に「対比作用」というものがある。これは、他の味の中に、ほんのわずかの塩が加わると、塩の味はわからないが、そのものの味がひときわ強く、しかもよくわかるようになる作用のことだ。たとえば、おしるこを作るときに、砂糖の他に、少量の塩を加えることは常識である。塩が少し入ると、おしるこは甘さを増し、しかも、大へんおいしくなる。いわゆるコクがでるといったらよいだろう”。
 旨味に対しても、この「対比作用」というのは大きな効果があるそうで、ダシを取った時に、少量の塩を加えて味をきくと、味の善し悪しがたちどころに分かるとのこと。この食品栄養学者は、「塩」はそのままではなく、かくし味として使われた時にこそ大きな力を発揮するのだと語っておいでです。
 
 「マルコによる福音書」9章50節に次のように主イエスの教えが記録されています。今紹介した話に照らして、この主の教えを考えたいと願います。
 「自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい」。
 ここでの「塩」、それを自らの内に保ってというあり方は、自己をのみ強く主張するというのではなく、社会の中でキリスト者として溶け込んで、和解や平和を作り出していく働きを担うようにというものです。それは、あたかも私たちがかくし味的な役割を担い、人々の間にあって、また社会の中で周囲の良さを引き出していく、そうした奉仕を求めている主イエスの教えではないでしょうか。
 主イエスは、地上での生涯を仕える存在として歩まれ、苦難を担い、十字架の上で全ての人のために命を捨てられました。それは、常に目立つという形での「地の塩・世の光」としての働きではなく、時として誰からも顧みられず、この世の弱く貶められた人々の友として生き、ついには愛する弟子たちからも見捨てられ、十字架の上に処刑される道を静かに進まれました。
 こうした主イエスの歩みには、他者を押しのけて、そこに覆い被さっていくという「塩」の働きや、あくまで自己をのみ主張し続けるという「光」の姿を認めることはできません。むしろ出会う他者をこそ活かす働き、暗さの只中に自分も身を置き、周囲に一筋の希望を与えるという役割をこそ担われたことを思います。そのような主イエスが、私たち一人ひとりをも「塩」として用いてくださるとすれば、私たちもまた周囲に溶け込み、他者を輝かせ、そして活かす、それぞれの関係や社会に和解と平和を小さくとも作り出していく、そのような働きへと主によって促されているということではないでしょうか。
 このように、聖書の語る「塩」には、一方では腐敗を防止し、清めるとの役割があり、また一方では溶け込んで他者を活かすという「対比作用」的なものがあります。この両方の効用を心にしっかりと留めておくことが大切ではないかと感じています。
 
 黒人男性ジョージ・フロイドさんが、5月25日にアメリカのミネソタ州ミネアポリスにて、紙幣を偽造した疑いで白人警官に逮捕されました。その際、警官の膝で首を強く押さえつけられ、フロイドさんは「息ができない!」と何度も訴えますが、警官の暴力は続きました。ついに意識を失い、救急車で病院に運ばれたフロイドさんは死亡してしまいます。この時の様子がSNSを通じて全世界に発信されたことで、現在、アメリカをはじめ世界各地で大規模な抗議活動、デモや集会が行われています。
 ロンドンで行われた抗議集会では、映画『スター・ウォーズ』シリーズに出演した俳優ジョン・ボイエガさんが、小さなメガホンを手に持って、時として声をつまらせ、涙ながらに語ったスピーチが話題になっています。
 集会に集まった多くの人々と怒りを共有しながら、ジョン・ボイエガさんは差別とは徹底的に闘おう、しかしデモ隊の一部が暴徒化して問題となっていることを踏まえて、「僕たちは平和的にやろう!」と強く訴えたのです。“黒人のみなさん。…今日は重要な日だ。僕たちは自分たちの権利のために戦っている。自由に生きていく力のために戦っている”、とジョン・ボイエガさんは語り出しています。
 “みなさんには、差別されることがどんなに辛いことかを理解してもらわなくてはならない。毎日、自分の人種の故に価値が無い、そう思い知らされることがどんなに痛みを伴うかを理解してもらわなくてはならない。そんなことは、これまでも、これからも事実無根なのだから”と、受け続けてきた差別の痛みを語ります。
 スピーチで彼は強くこう訴えました。“集会を統制が取れたものにし、できる限り平和的に行うことは、本当に大事なことだ。僕たちはこの集会をできる限り平和で、そして組織的なものにする。…想像してみて欲しい。健康でコミュニケーションをしっかりととり、愛を持って子どもたちを育て、一生懸命に生きている家庭によって築かれる国家は、善良な人間を生む可能性が高いはず。それこそが、僕たちが創り出さなくてはならないものだ。(黒人男性の)みなさん、全てはあなたから始まる”
 今日の説教の準備をしながらこのスピーチに触れ、ここにもこの世の腐敗を防止して清め、正義と公平を求める、同時に「互いに平和に過ご」していこうとする、そんな「地の塩」の働きを確かに認めることができるように感じました。
 
 青山学院は「地の塩、世の光」を学院全体の標語聖句としているとのこと。大学の宗教主任である塩谷直也牧師が、「地の塩」を巡って一編の詩を紹介しています。「ボスはいらない」というもので、ボスとリーダーを対比しているものです。最初の一文は、“ボスは部下をあごで使い、リーダーは指導する”から始まっていますが、このリーダーの部分には学院の標語である「地の塩」を当てはめる方が適切ではないかと感じました。そこでリーダーを「地の塩」に読み替えて紹介します。
 ボスは部下をあごで使い、「地の塩」(リーダー)は指導する。 
 ボスは権力に頼り、「地の塩」(リーダー)は善意に頼る。
 ボスは恐怖をあおり、「地の塩」(リーダー)は情熱をかきたてる。
 ボスはいつも自分本位、「地の塩」(リーダー)は全体のことを考える。
 ボスは仕事を命じ、「地の塩」(リーダー)は自ら模範を示す。
 ボスは「時間通りに集まれ」と言うだけ、
              「地の塩」(リーダー)は時間前に行って待っている。
 ボスは物を壊すととがめ、「地の塩」(リーダー)は壊れた物をなおす。
 ボスは仕事のやり方を口で言うだけ、「地の塩」(リーダー)は実際にやってみせる。
 ボスはあくせく仕事をやらせるが、「地の塩」(リーダー)は楽しく仕事をやらせる。
 ボスは「これをやれ」と命令し、「地の塩」(リーダー)は「これをやろう」と促す。
 何事にも「地の塩」(リーダー)は必要だが、ボスはいらない”
 直面している困難の中で、いま必要とされているのは「ボス」ではありません。世の腐敗を防止し清め、正義と公平を求め、「互いに平和に過ご」そうとする「地の塩」、静かで穏やかなそんな存在と奉仕こそが求められていることを思います。  
 主イエスの「塩」に関する宣言と教えを心にとどめ、静かで穏やかに「地の塩」とされ、主イエスの促しに従い、歩みを進めていく私たちでありたいと願います。