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説教

早稲田教会で語られた説教をテキストと音声データで掲載します


2020年7月12日

「癒し」 使徒言行録9:32〜35
 奥山京音伝道師

 
〈聖書〉使徒言行録 9:32〜35 

(32)ペトロは方々を巡り歩き、リダに住んでいる聖なる者たちのところへも下って行った。
(33)そしてそこで、中風で八年前から床についていたアイネアという人に会った。
(34)ペトロが、「アイネア、イエス・キリストがいやしてくださる。起きなさい。自分で床を整えなさい」と言うと、アイネアはすぐ起き上がった。
(35)リダとシャロンに住む人は皆アイネアを見て、主に立ち帰った。

 

  
 新型コロナウイルス感染症が世界に影響を与えてから長い月日が経ちました。早稲田教会も、4月から無会衆の礼拝を捧げて本日で3ヶ月が経ちました。集会や教会活動は3月から自粛しています。それにより、人との交わりにも大きく影響しました。これまでお顔を拝見する事ができた方と会えなくなり、楽しみの一つであった何気ない会話も控えなくてはいけなくなり、自粛自粛と様々な方面からの圧に押しつぶされそうな日々でした。
 現在では、ウイルスと向き合い、対処法・予防法も明確になってきたため、この情勢に合わせて教会の対応も少しずつ変化しています。その一つとして、ネットでティーアワーと教会学校を5月から開催しました。ネットで集会を持つことができるようになり、久方ぶりに皆様のお顔を拝見することができ、お声を聞ける喜びを今でも覚えています。
 けれども、恥ずかしながら私は貪欲な人間であり、「感受性が強く繊細な性格」といえば聞こえはいいですが、稚拙に表すと「寂しがりや」なところもあり、皆様と画面で対面することは嬉しく思う反面、皆様が画面の向こう側にいらっしゃることに寂しさを憶えました。これまで当たり前にできていた事が当たり前ではなかったことを、この期間痛感しました。日曜日、ガランと空いた席を視界に入れながら、無機質なレンズに向かって話しかけるとき、毎回頭に過ぎる思いがあります。この声は届いているだろうか。聞いてくださる方にちゃんと伝えられているだろうか。そもそもレンズのその先に人が居るのだろうか。そうした不安と空しさに陥ったとき、思考は鈍くなり、舌は重くなり、目線はどんどん下へと落ちていってしまいます。意識して前を向こうとすれば、閑散とした礼拝堂が目に入り、虚無感に襲われ不安と恐れを感じる繰り返しです。こうしたとき、信仰の先輩方である皆様は神様を支えとしていらっしゃるのかもしれませんが、信仰の弱い私はあっけなく崩れてしまいます。信仰心を強く持ち気丈に立っていたいと願うものであります。
 
 さて、本日の聖書箇所に移ります。本日私たちに与えられた聖書箇所は使徒言行録9章32節〜35節です。使徒言行録はパウロに関する話が後半部分を占めているため、パウロがメインの話と思えますが、パウロ以外にも様々な信仰者が出てきます。イエス様の姿に習って大胆に神様の教えを説いて殉教したステファノ、神様以外に恐れを感じて尻込みするも、最後は神様の御心に従って歩むアナニア、かつてキリスト者を率先して迫害していたパウロを疑い、仲間に入れることを恐れた弟子たちにパウロの事の次第を丁寧に説明し、紹介者として導いてくれたバルナバなど、こうした信仰者たちによって「教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方で平和を保ち、主を畏れ、聖霊の慰めを受け、基礎が固まって発展し、信者の数が増えて」いきました。聖書に記されていることははるか昔に書かれたことでありますが、現在の教会もこのような信仰者たちに支えられていることを憶えます。ステファノのように神様のために熱心に奉仕をしてくださる方、アナニアのように少々慎重に行動をとりつつ、最後は神様の御心のままにと身を委ねて歩む方、バルナバのように対立する人の間に立ち、困っている人を助ける柔和な方、様々な方々に支えられ、私たちの教会は歩みを続けることができています。
 
 本日の箇所にはペトロが出てきます。使徒言行録1章8節「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」とイエス様が宣教のために弟子たちを派遣しました。ペトロはそのイエス様の宣教命令に従って、「方々を巡り歩き、リダに住んでいる聖なる者たちのところへ」行きました。そこで出会ったアイネアは神学書によると、ギリシア名であることから、ヘレニストのユダヤ人信者であると推測がされています。
 このヘレニストとは簡単に申し上げますとギリシア的な人、つまりギリシア語を話せる人やギリシアが好きな人のことを指します。病に苦しんでいる時のアイネアはキリスト教の信徒ではありません。それでもペトロはアイネアの元へ行き、イエス様の癒しを与えました。35節にこのように記してあります。「リダとシャロンに住む人は皆アイネアを見て、主に立ち帰った」。
 ここで表している「皆」とはユダヤ人とヘレニストであるユダヤ人のことを指していると推測すると、異邦人伝道の先駆者はペトロだったと考えられるのではないでしょうか。
 ペトロは、「アイネア、イエス・キリストがいやしてくださる。起きなさい。自分で床を整えなさい」と言ってアイネアを癒します。ここで注目したいのは、「イエス・キリストがいやしてくださる」という言葉です。ペトロは決して自分の力で癒すと言っているのではありません。イエス様の名の下に、聖霊が働くことを信じて「イエス・キリストがいやしてくださる」と言い、ペトロを通して「イエス・キリスト」の御業が働いたのです。それにより、35節に記してある皆は「主に立ち帰った」のです。
 「立ち帰る」という言葉の意味は皆様もご存知と思われますが、私は正しく言葉の意味を理解していなかったため調べてみました。「立ち帰る」とは原点・出発点に戻ることや、もとの状態に戻ることを指します。その意味を理解した上で35節を読むと「主に立ち帰った」とは私たちにとって「主」が原点であり、出発点となります。私たちはかつて、主を原点として歩みを進めてまいりましたが、世俗で生きるうちに原点を忘れ、自分を見失ってしまうときはないでしょうか。35節の人々も、原点を忘れ自分を見失っていたと想像します。それが、イエス・キリストの癒しによって、「主に立ち帰」ることができたのです。まるで迷っていた羊が在るべきところに戻ったようです。
 
 私はこれまで、大きな病気に罹ったことはありません。そのため、アイネアのように8年病によって伏せることはないため、「病」の苦しさ、大変さは私には理解が十分にできていないと思います。皆様とティーアワーで交わりを深める時も、「病」のことは話題に上りますが、私は自分が質問することによって、進められている話の腰を折ることを恐れ、理解が十分にできないまま、笑顔で相槌を打っていました。
 それほどに「病」の理解に疎い私でありますが、本日の聖書箇所を通して、「病」について考えた時、何も身体的なことに限るものではないと思いました。冒頭でお話ししましたように、心細さを感じることによって、気分が落ち込んでしまうことも悪化すれば心の病に繋がると考えます。
また、自分がこの先「病」に冒されていることを想像するのは難しいことですが、現在、新型コロナウイルスに自分が罹り、誰か人へ染すことによって、他者を苦しめてしまうのではないか、傷つけてしまうのではないかと恐れ、自分が罹らないか不安を憶えながら過ごしています。7月9日と10日の新規感染者数は200人を超え、過去最多の記録となりました。専門家の第二波を懸念する声が強くなる一方です。
 また報道で、新型コロナウイルスによって、人々の心に疲れが出てきているところを見ると、人と人との関わりに鬱屈とした空気、緊迫した雰囲気があるように感じました。こうした面を見ると、病は身体的影響に限ることではないと気付かされます。心も病にかかることはあります。
 新型コロナウイルスの影響によって不安を憶えて生活している一方で、九州地方では豪雨被害によりそれによって大切な人を亡くされた方、行方不明になった大切な人の帰りを待っている方など、悲しみを抱えた方が多くいらっしゃいます。情勢を冷静に見つめ直した時、私たちには今まさに「イエス・キリスト」の癒しが必要なのだと強く心に感じます。
 
 本日の招詞にはこのように記してあります。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。 互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である」。
 私たちは、かつて背負いきれないほどの罪に支配されていましたが、イエス・キリストの十字架によって贖われ、復活の恵みに与ることが許されています。そして私たちがイエス・キリストを頭として、イエス・キリストにつながりながらキリスト者として歩んでゆくのだと考えます。私たち一人一人は神様に派遣され、聖霊に支えられながらイエス・キリストの癒しをこの世に広めていくのが今、大切な働きなのではないでしょうか。
 この一週間で偶然にも教会の方に会うことが何度かありました。お会いした方とは少しの時間しか喋ることはできませんでした。ソーシャルディスタンスを保つために距離もありました。お顔も、マスク着用のため目元しか確認できませんでした。それでも、私は教会の方との交わりに救われ、これまで自分の心に蓄積されていた不安や恐れが癒されました。
 実際にお会いすることができずとも、つながりを感じることがあります。冒頭でカメラの前に立って閑散とした礼拝堂で話すことへの不安を申し上げましたが、教会の方からその日の礼拝に関して連絡があります。その時、寂しさを感じていた私は一人でないことに気づかされ、かけてくださる言葉一つ一つに励まされ、声をかけてくださる方を通して、イエス・キリストの「癒し」に与ることができています。
 
 現状を見つめ直すと、各地で悲しみや恐れ、不安を憶えて過ごす人が多くいらっしゃいます。心が休まることなく、身体だけでなく心にまで疲れが出てくる人も多くいらっしゃるのではないでしょうか。そうしたとき、私はキリスト者として改めて「主に立ち帰る」、原点を思い起こしてゆきたいと願います。しかし、一人ではどうすることもできない時があります。特に心の疲れは一人で解決するのは難しいと考えます。そうした時に、信仰の友である兄弟姉妹との繋がり、その繋がりを通してイエス・キリストの癒しに与ることができるのではないでしょうか。
 私たちは聖霊に励まされ、イエス様から派遣されています。他者を思いやり、声をかけること、憶えて祈ること、心にとめること、こうした行動の内にイエス・キリストの「癒し」が在るのではないでしょうか。混沌としたこの世、悲しみが深まる現在の情勢に、私たちはキリスト者として聖霊の励ましを受けながら、イエス・キリストの「癒し」を広めていきたいと願うものであります。