HOME | 説教 | 説教テキスト20200726

説教

早稲田教会で語られた説教をテキストと音声データで掲載します


2020年7月26日

「励まし励まされ」 使徒言行録27:33〜44
 奥山京音伝道師

 
〈聖書〉使徒言行録 27:33〜44 

 (33)夜が明けかけたころ、パウロは一同に食事をするように勧めた。「今日で十四日もの間、皆さんは不安のうちに全く何も食べずに、過ごしてきました。(34)だから、どうぞ何か食べてください。生き延びるために必要だからです。あなたがたの頭から髪の毛一本もなくなることはありません。」(35)こう言ってパウロは、一同の前でパンを取って神に感謝の祈りをささげてから、それを裂いて食べ始めた。(36)そこで、一同も元気づいて食事をした。(37)船にいたわたしたちは、全部で二百七十六人であった。(38)十分に食べてから、穀物を海に投げ捨てて船を軽くした。
 (39)朝になって、どこの陸地であるか分からなかったが、砂浜のある入り江を見つけたので、できることなら、そこへ船を乗り入れようということになった。(40)そこで、錨を切り離して海に捨て、同時に舵の綱を解き、風に船首の帆を上げて、砂浜に向かって進んだ。(41)ところが、深みに挟まれた浅瀬にぶつかって船を乗り上げてしまい、船首がめり込んで動かなくなり、船尾は激しい波で壊れだした。(42)兵士たちは、囚人たちが泳いで逃げないように、殺そうと計ったが、(43)百人隊長はパウロを助けたいと思ったので、この計画を思いとどまらせた。そして、泳げる者がまず飛び込んで陸に上がり、(44)残りの者は板切れや船の乗組員につかまって泳いで行くように命令した。このようにして、全員が無事に上陸した。

 

   
 「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。」
 これは新約聖書ペトロの手紙第一の5章7節の言葉です。本日の聖書箇所について調べながら考えあぐね、本の整理をしているときに、御言葉が記されている栞が落ちました。その栞に記されていたのが、ペトロの手紙第一5章7節の言葉でした。
 この栞を見たとき、私たちは生きている中で、様々な思い悩みを抱えていると考えました。思い悩みを抱え不安定な自分の心の状況はまるで嵐のようです。自然災害の嵐よりも、精神面での嵐、心理状態の嵐を経験することが多くあるのではないでしょうか。
自分の心が嵐の中にあるとき、私たちは何もかも神様にお任せすること、身を委ねることができるでしょうか。
 自分の経験の中で、私の心が嵐に悩まされたのは大学生の時でした。環境の大きな変化に耐えられず、様々な解決方法がある中で、何よりも死ぬことが一番最善で簡単だと思うことがありました。初めは誰にも話すことができず、自分がしっかりしなくてはいけないと思い、自分でなんとかしようともがいていました。当時の私がペトロの手紙第一5章7節を読んだら「何を言っているんだ」と憤慨していたかもしれません。自分が今抱える思い煩いを神様に任せて、自分にとって良い方向に進むと信頼できず、任せることが正しいと理解しながらも保険をかけたい狡猾な自分がいます。そんな狡猾な自分を神様は心にかけているはずがないと考え、初めから信頼もせずに任せることもできず、経緯を見る前に勝手に悪化した状況を妄想して保険に逃げるのです。神様に任せず、自分がかけた保険、自分が計画した策が一番だと傲慢に思い、失敗し、状況は悪化し、それでも神様に任せずに自分でなんとかしようと考え、失敗し、悪化しということを繰り返し、自分が考える保険が最終的に行き着いたところは「死ぬこと」でした。これでもうダメなら死ぬしかないと考え、はじめて自分一人ではどうすることもできない、キャパオーバーであることを認めざるを得なくなりました。
 自然災害はもちろんのこと、精神面での嵐も人間にはどうすることもできないと実感しました。
 
 さて、本日の聖書箇所に移りたいと思います。パウロはカイサリアで監禁されてしまいました。その後、パウロの釈放を巡って裁判をする際、パウロはローマの市民権を行使し、カイサリアで裁判をするのではなく、皇帝に上訴し皇帝の元に出頭することになり、パウロはローマへ船旅することとなりました。
 パウロはその船旅で嵐に見舞われてしまいます。嵐に遭遇するのは本日の箇所以外でも聖書で見られます。旧約聖書では、ヨナ書でヨナが神様の命令に背き、逃げ出すために船に乗りました。そこでヨナが乗った船が嵐に襲われます。新約聖書ではイエス様の水上歩行がよく知られている話です。弟子たちが湖を渡っているときに嵐に遭います。
 ヨナの嵐は神様の命令に従わなかったヨナへの制裁ではなく、神様がご計画されたヨナの使命に呼び戻すためでした。水上歩行での嵐は、「いったい、この方はどういう方なのだろう。風や湖さえも従うではないか」と言っていた弟子たちにとってイエス様の本当の姿を知り、信仰告白へと繋がる重要な役割を持っていました。嵐の中、湖の上を歩くイエス様の姿を見て弟子たちはイエス・キリストを見直したのです。
 このように、これまで聖書に記されている嵐を思い起こすと、本日の箇所の嵐も何か意味が、神様の意図があるのではないでしょうか。
 嵐は自然の現象の一つであり、人間には嵐をある程度予測することができても、完全にコントロールすることはできません。聖書の嵐は単純に自然現象を物語の一部として伝えているのではなく、その人間がコントロールできない自然の現象をコントロールする神様のご計画が「必ず」実現されていることが重要になってくるのではないでしょうか。
 
 自然現象だけでなく、精神面、人生においても荒波に飲み込まれそうな嵐の中、私たちは一生懸命歩んでおります。そうしたとき、私たちは信仰者として信仰心を強く持ち歩んでゆけているでしょうか。私は冒頭で申し上げました通り、苦難の中に在るとき自分の力でなんとかしようともがき、神様のご計画ではきっとシンプルだったことを、自分で複雑にして混乱し、雁字搦めのような状態に抜け出せなくなり、「死んだほうが楽だ」と思うほど深みにはまってしまいました。深みにはまり、自分ではどうすることもできないと認めた後は心が楽になり、はじめて周りに助けを求めることができました。助けてくださった方は、私のために聖書を引用して話したり、祈ったりしたのではなく、ただ私の話を静かに聞いてくださいました。それが心地よく、これまでもがいて苦しんでいたのが嘘のように、気が楽になりました。その方はキリスト者として特別に何かをしたのではなく、共に居て私の悲しみや苦しみに寄り添うことで励ましてくださいました。
 その方と話しているうちに自分の心に思い起こしたのがコリントの信徒への手紙第一10章13節でした。「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」自分が苦難に遭っているとき、神様を畏れ、厳しい方であるからこそ自分は神様の御心から離れた裁きを受けているのかと不安を憶えるときもありますが、私たち人間を心にかけてくださる慈悲深い方であることを今一度落ち着いて思い起こしたいと願います。
 
 人間は危機的状況に陥ると、自分もしくは自分が大切にする人の命が助かることを第一に、自己中心的な行動をとってはいないでしょうか。本日の箇所でもそういった人間の自己中心的行動が見られます。本日の聖書箇所の少し前、30節にて船員たちは船から小舟を出して逃げ出そうとします。船が嵐に悩まされている中、船や天候、操縦など詳しい専門家である船員に逃げられてしまえば、他の乗組員は助かりません。船員も、小舟で逃げたからと言って、嵐で風が吹き荒れる中を小さな舟が耐えられるとは思えません。
 本日の聖書箇所では兵士が自己中心的に行動しています。42節で兵士達は囚人が泳いで逃げないように囚人を殺そうと計りました。このように考えた兵士の思いは、面倒なことが起こる前に片付けておきたいという保身ではないでしょうか。
 船員は、小舟で助かるかどうかはわからないが、船が沈没してしまう恐れから、小舟で逃げ出そうとしてしまいます。兵士も、囚人たちが万が一逃げ出したとき自分に責任が降りかかるからその前に殺してしまった方が楽かもしれないと思ったのかもしれません。このように、これから起こるであろう困難、先を見越しての計算を私たちは日常的にしていると思います。なぜなら、先を計算し回避できる困難は回避したいものですし、できることなら失敗も困難も遭いたくないものだからではないでしょうか。
 失敗したくない、困難な状況、苦難に遭いたくないという思いの中に、神様が自分と共にいてくださるということを忘れてはいないでしょうか。
 
 パウロは嵐の中、ただひたすらに神様に思いを向けています。それだけでなく、「皆さん、元気を出しなさい。」と励ましています。これが、キリスト者としての姿ではないでしょうか。パウロが嵐に出会っても、周りを励ますことができたのは、「必ず」神様のご計画が実現されることを知っていたからです。パウロは船に乗っている人々を励ますときにこのように言いました。「しかし今、あなたがたに勧めます。元気を出しなさい。船は失うが、皆さんのうちだれ一人として命を失う者はないのです。 わたしが仕え、礼拝している神からの天使が昨夜わたしのそばに立って、こう言われました。『パウロ、恐れるな。あなたは皇帝の前に出頭しなければならない。神は、一緒に航海しているすべての者を、あなたに任せてくださったのだ。』 ですから、皆さん、元気を出しなさい。わたしは神を信じています。わたしに告げられたことは、そのとおりになります。」パウロは自分がどのような困難・苦難の中にあっても神様のご計画が「必ず」実現されることを信じています。神様がパウロを支えてくださるからこそ、苦しい状況の中もパウロはしっかりと立って人を励ますことができるのです。
 
 私たちは生きている中で困難や苦難に遭うときがあります。そうしたとき、私たちの心は嵐のように荒れているかもしれません。嵐の中、どうすればいいかわからず、船員のように自分の計画が正しいと判断して結果を見る前に逃げ出そうとするときや、兵士のように自分の保身のために手段を選ばず突発的な行動をしてしまうときがあるかもしれません。そうしたなかでも、神様のご計画は実現されます。そして、私たちを心にかけてくださる神様のそのご計画は私たちにとって試練になっても耐えられないほどのものではありません。神様が私たちを心にかけてくださる。イエス様が私たちと共に居てくださる。そのことを忘れずに、神様の御心のままに新しい一週間も歩んでまいりたいと願うものであります。