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説教

早稲田教会で語られた説教をテキストで掲載します


2020年8月9日

「命の糧」ローマの信徒への手紙 14:10〜23
 奥山京音伝道師

 
〈聖書〉ローマの信徒への手紙 14:10〜23 

 (10)それなのに、なぜあなたは、自分の兄弟を裁くのですか。また、なぜ兄弟を侮るのですか。わたしたちは皆、神の裁きの座の前に立つのです。(11)こう書いてあります。「主は言われる。『わたしは生きている。すべてのひざはわたしの前にかがみ、すべての舌が神をほめたたえる』と。」(12)それで、わたしたちは一人一人、自分のことについて神に申し述べることになるのです。
 (13)従って、もう互いに裁き合わないようにしよう。むしろ、つまずきとなるものや、妨げとなるものを、兄弟の前に置かないように決心しなさい。(14)それ自体で汚れたものは何もないと、わたしは主イエスによって知り、そして確信しています。汚れたものだと思うならば、それは、その人にだけ汚れたものです。(15)あなたの食べ物について兄弟が心を痛めるならば、あなたはもはや愛に従って歩んでいません。食べ物のことで兄弟を滅ぼしてはなりません。キリストはその兄弟のために死んでくださったのです。(16)ですから、あなたがたにとって善いことがそしりの種にならないようにしなさい。(17)神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。(18)このようにしてキリストに仕える人は、神に喜ばれ、人々に信頼されます。(19)だから、平和や互いの向上に役立つことを追い求めようではありませんか。(20)食べ物のために神の働きを無にしてはなりません。すべては清いのですが、食べて人を罪に誘う者には悪い物となります。(21)肉も食べなければぶどう酒も飲まず、そのほか兄弟を罪に誘うようなことをしないのが望ましい。(22)あなたは自分が抱いている確信を、神の御前で心の内に持っていなさい。自分の決心にやましさを感じない人は幸いです。(23)疑いながら食べる人は、確信に基づいて行動していないので、罪に定められます。確信に基づいていないことは、すべて罪なのです。

 

   
  新型コロナウイルスの影響に伴い、現在では外出時にマスクをつけることがマナーの一つとなっています。これにより、最近ではマスク着用を巡ってのトラブルが増えてきているとニュースで報道されていました。
 マスクを着用していない人が電車に乗っており、咳をしているという理由で緊急停止ボタンを押す人がいたそうです。また、他にも公園で遊んでいる子どもがマスクを着用していないため、通りがかった人が子どもの親に厳しく注意をしたそうです。注意を受けた子どもは泣いていたそうです。状況を完璧に理解できない子どもでも、怒っている人、傷付いている人は認識できます。知らない人が自分のせいで怒っている。自分のせいで自分の親が傷付いている。子どもにとってこの出来事は大きなトラウマになったのではないかと考えます。
 こうした、マスク着用を促す人々を巷では「マスク警察」「マスクパトロール」と言われています。この、最近出てきているマスク警察に賛否両論はありますが、私個人としては疑問、引っかかりを覚えます。
 「マスク警察」が行なっているパトロールは、ウイルス感染拡大を阻止することに視点を置くと、一見正しい行為に見えます。こういった危機感をしっかりと持っている人の呼びかけにより、感染拡大が抑えられているのかもしれません。けれども、他者への配慮という点に視点を置くと引っかかりを覚えます。そもそも、マスクを着用するのは飛沫の拡散予防に有効であるためであり、人と十分な距離をとれる屋外であれば、熱中症になる恐れがあるため無理して着用する必要はありません。また、マスクを着用したくても着用できない人も中にはいます。その一人である「感覚過敏」の方はマスクを着用することによって、激痛、めまい、吐き気など、個人差はありますが、生活に支障をきたす症状が起こります。
 「みんながそうしているから」「マスクを着用していない人に対して、マスクがないなら電車に乗るなと言っている人を見かけたから」と言ったマスク着用者の発言を聞いていると、感染拡大予防のためにマスクを着用しているのではなく、「マスク警察」に攻撃されることを恐れて着用しているのではないかと考えます。
 「マスク警察」は大きな使命感を持ってパトロールをしているのだと思います。マスク警察にはマスク警察の正義からくる善行なのでしょう。その使命、正義、善行は、人の心を傷つけて、マスクを着用できない理由がある少数者を無視してまで通すべきものなのでしょうか。そこに私は引っかかりを覚えるのです。正しい行動の裏に傷付いている人がいる。人を傷つける善行とはなんでしょうか。私は理解に苦しみます。
 
 さて、本日の聖書箇所に移ります。ローマの信徒への手紙14章1節から12節では、教会内での人間関係について取り上げています。これまで、別の宗教に属していた人が改宗してキリスト教の信徒として新しい生き方に踏み出しました。しかし、これまでの古い生き方の習慣や生活信条を切り離すことができませんでした。これまでの古い生き方から解放され、自由に振る舞うことができる人を「信仰の強い人」、これまでの古い生き方を新しい生き方へと完全に切り替えることができず、社会通念にこだわる人を「信仰の弱い人」とパウロは表現しました。
 信仰の弱い人は、「肉を食べない」「特定の日を重んじる」という生き方をしていたのに対し、信仰の強い人はそれを軽蔑し、それは間違っていると信仰の弱い人を裁いたのではないでしょうか。肉を食べるか食べないか、特定の日を重んじるか重んじないのか、こうした議論が次第に弱い人と強い人が互いを裁き合うことに発展していったと想像します。
ローマの信徒への手紙14章13節から23節では、「信仰の弱い人」に対する態度に関して「もう互いに裁き合わないようにしよう」と語りかけました。
パウロは、教会内で起こっている人間関係の問題を強い人の立場に立って14章1節から3節にありますように軽蔑したり裁くのではなく、受け入れなさいと勧告しました。強い人が正しいと思った善行でも、弱い人がそれにより罪の意識を感じるならば、それは弱い人にとっては罪になります。強い人が行なった正しいことも、弱い人が罪意識を感じるならば、それは弱い人にとって「つまずきとなるもの」「妨げとなるもの」になります。強い人は、兄弟姉妹の前に「つまずきとなるもの」や「妨げとなるもの」を置かないよう決心しなさいいとパウロは勧めます。それはつまり、強い人が弱い人への配慮を怠ってはいけないという勧告とも考えられます。
 また、人を裁く時に心の奥底で「自分はできているのになぜあなたはそれができないんだ」と思ったり「自分はやっているのに、あなたがやらないのはずるい」と思ったり、神様のために行う善行や正義の裏に、私情が少しも入っていないと言い切れるでしょうか。こう言った思いの中に、相手への配慮は見られませんし、愛のある行動とは思えません。
 
 パウロは教会の人間関係を考えながら勧告していますが、このことは現代においても言えることではないでしょうか。冒頭でお話ししましたマスク警察に関して賛否両論ある中、コメンテーターはこのように語りました。
 「何か注意をする前に、どうして?という疑問と想像力を忘れてはいけないと思う。どうしてこの人はマスクをしていないのだろうか。マスクをしていない理由があるんじゃないか。こう言った疑問や想像力は大切である。また、声をかける時も強い言い方ではなく、冷静な話し合いを目的として優しく声をかける。そうすれば、もっとスムーズにいくんじゃないでしょうか。」
 この方が仰っていることは何も特別なことではなく、当たり前のことを仰っています。けれども、その当たり前のことが今は出来ていないのだと痛感します。どれほど正しい行いでも善行でも、その善行が「そしりの種」になり、「心を痛める人」がいて、「兄弟姉妹を滅ぼす」ことなら、それは善行とは言えないのではないでしょうか。
 
 ある神学者は十字架には二つの面があると説いています。一つは「神の正しい真理と主張」もう一つは「真のゆるしと寛容」です。この「寛容」とは強い人が弱い人の全てを容認し、事なかれ主義で通せという意味ではなく、「愛の寛容」です。
神様がなぜイエス様をお遣わしになったのか。罪のないイエス様がなぜ十字架につけられたのか。今一度思い起こしたいと願います。イエス様は私たちの罪のために十字架につけられました。それにより、隔たりの壁を打ち壊し、全ての人が神様のみ前に立つことが赦されたのです。3節に「食べる人は、食べない人を軽蔑してはならないし、また、食べない人は、食べる人を裁いてはなりません。神はこのような人をも受け入れられたからです。」とありますように、食べ物にイエス・キリストの倫理はありません。私たち一人一人の魂にイエス・キリストの倫理があります。強い人の正しい行動に、弱い人が心を痛めるなら、それは強い人の自己主張であり、その自己主張は愛のある行動と言えるでしょうか。愛なる神様の御心から離れてはいないでしょうか。イエス様が私たち人間の罪のために十字架につけらたのは愛に従った行為であり、それは「神から出て、神によって保たれ、神に向かってい(ローマ11:36)」ます。私たちが行う善いことは愛なる神様から出て、神様に保たれ、神様に向かっている愛に従った行為です。
 招きの言葉をもう一度拝読します。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。 」
 篤い信仰心から、正しい判断、善い行いを神様のためにしたいと強く思う時があります。そういった時、その行動に神様の御心と愛が離れていないか落ち着いて見直したいと願います。互いに裁き合い、つまずきとなるものや妨げとなるものを兄弟姉妹の前に置くのではなく、愛のある配慮を持って、神様の御心に従って歩むことが私たちキリスト者としての歩みではないでしょうか。
 緊迫とした雰囲気の中でも、私たちは「互いに裁き合」うのではなく「互いに愛し合いなさい。」というみ言葉を糧に、新しい一週間も聖霊に与えられる義と平和と喜びを持って歩んでゆきたいと願います。