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説教

早稲田教会で語られた説教をテキストで掲載します


2020年8月16日

「勝つと信じるか信じて勝つか」ヨハネの手紙一 5:1〜5
 柳下明子牧師(日本聖書神学校)

 
〈聖書〉ヨハネの手紙一 5:1〜5 

(1)イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です。そして、生んでくださった方を愛する人は皆、その方から生まれた者をも愛します。
(2)このことから明らかなように、わたしたちが神を愛し、その掟を守るときはいつも、神の子供たちを愛します。
(3)神を愛するとは、神の掟を守ることです。神の掟は難しいものではありません。
(4)神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。
(5)だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。

 

 
 8月15日は75年目の敗戦記念日でした。
 1967年に公にされた「日本キリスト教団戦争責任告白」には以下のようにあります。「『世の光』『地の塩』である教会は、あの戦争に同調すべきではありませんでした。まさに国を愛する故にこそ、キリスト者の良心的判断によって、祖国の歩みに対し正しい判断をなすべきでありました。しかるにわたくしどもは、教団の名において、あの戦争を是認し、支持し、その勝利のために祈り努めることを、内外にむかって声明いたしました。まことにわたくしどもの祖国が罪を犯したとき、わたくしどもの教会もまたその罪におちいりました。わたくしどもは「見張り」の使命をないがしろにいたしました。心の深い痛みをもって、この罪を懺悔し、主にゆるしを願うとともに、世界の、ことにアジアの諸国、そこにある教会と兄弟姉妹、またわが国の同胞にこころからのゆるしを請う次第であります。」
教会は戦争に協力した歴史を決して忘れてはならないでしょう。
 わたしたちが道を誤るのは簡単です。植民地を解放する、キリスト教という宗教を日本に定着させる、そうした「美しい」目的のために、わたしたちは簡単に道を誤ります。
 おまけに、わたしたちの愛する聖書は「神の武具を身につける」とか「信仰の戦いを戦い抜く」とか勇ましい言葉をしばしば用いています。聖書に出てくるそうした勇ましい言葉を、わたしたちは簡単に自分たちの生活に適応してはなりません。わたしたちの文脈と、聖書に於けるその意味を、わたしたちは注意深く読み解かねばならないでしょう。
 
 たとえば「勝つ」という言葉です。『新明解国語辞典』ではこの言葉をこんな風に定義しています。「勝つ:実力の違いを認めさせて、それ以上対抗することを断念させる」(「新明解国語辞典」第五版)違いを見せつけて、相手をねじ伏せる、抵抗を諦めさせることが「勝つ」ことだと言い、対象を圧倒することへの関心がそこにはあることがわかります。
 
 けれども、聖書が語るところでは、勝利を求めることはそのような意味ではありません。他者を圧倒しようとすることとは逆のことを伝えるものなのです。
 礼拝で読まれた聖書は、「勝つ」ということについて、そして併せて「信じる」と言うことについてぐるぐると同じ事柄の間を巡っているように見えます。
 
 「イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者(1節)」「神から生まれた人は皆、世に打ち勝つ(4節)」「世に打ち勝つ勝利、それは・・・信仰(4節)」「誰が世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者(5節)」そして振り出し、「イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者(1節)」にもどります。
 聖書の言う「勝つ」ことは、その前提に、イエスがメシアであると信じることが存在しています。
イエスがメシア、ギリシャ語で言えばキリストであると信じることは、持っているものを全て失い、奪われ尽くされることが、なお希望になるということです。十字架で自分のいのちを失うことで、人に命を与える、イエスの十字架は、敗北ではなくて最終的な勝利であることを知ることです。
イエスがメシアであると知ることは、喪失や敗北のように見えることが、決してそうはならないことを、知ることです。いのちは失われるように見えても、繋がっており、大切なものを自分の手から失うように見えることが、人を豊かにする、そのことを知ることです。なぜなら、わたしたちこそが、そのようにして、キリストであるイエスによって救われたからです。そのようにして神によって、この場所、教会でのいのちを与えられたからです。
 それを知るところから、世の中と対峙することが始まります。イエスがキリストであると信じているから、「世に勝つ」世の中の価値感に勝つことができます。
 勝つことは、そこでは、相手を圧倒することを目指すものではなくなります。相手を押さえ込むことを達成すると信じて、大きく強くなることを目指す必要はそこでは生じません。
 
 「勝つ」ことと「信じる」ことについてぐるぐると展開しながら語る言葉の中で、聖書はずっと、いま、わたしたちが経験していることについて語ります。「信じる」ものは「勝つ」、と現在形の動詞で語り続ける中で、「世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です」と言うことばの中にだけ、新約聖書の原文では異なる時間、異なる時制を用いて伝えています。「世に打ち勝つ」、と言うこの言葉だけは、実は原語のギリシャ語では、「世に勝った」という、既に起こったことを伝える時制で表現されています。アオリストというギリシャ語のいわば過去形として用いられる時制の特徴は、過去に一回生じると、二度とその結果が覆らない、変更が効かないことについて用いられることを意味します。ですから、「世に勝ってしまった勝利とはわたしたちの信仰です」と言うのが時制にこだわって意味を取り直した場合の翻訳になるでしょう。もう既に「世に勝ってしまった」「世を克服してしまった」「世を乗り越えてしまった」と聖書は伝えているのです。
 
 「イエスが神の子と信じるもの」は、もう既に世に勝っている、その中でわたしたちは生きています。
 勝つと信じて、相手を圧倒し征服しようとする努力を繰り広げるのではなくて、信じているものはその圧倒し征服する価値を克服する形で勝利しています。
イエスをキリストと信じる者は、勝つと信じて強く大きくなる必要はない。イエスをキリストと信じる者は、イエスを信じることで勝っているのです。そのような者が選び取る他者との出会い方が「愛する」ことです。
 イエスによって、救われ、いのちに取り戻されたものは、自分と同じ尊厳を他者に認め、他者のいのちを同じように尊重することへと招かれます。「神の子どもたちを愛します」。

 8月6日広島の平和記念式典で、広島市内の小学生が「平和への誓い」を読み上げました。
 平和への思いを継承してゆくために、2008年から広島市が行う小学生の作文コンクールで選ばれた20名の児童が、考えて作る誓いだそうです。いま、日本の社会で生きている子どもたちの思いが伝わる言葉でした。
 「『75年は草木も生えぬ。』と言われた広島の町。nbetto
 75年が経った今、広島の町は、人々の活気に満ちあふれ、緑豊かな町になりました。
 この町で、家族で笑い合い、友達と学校に行き、公園で遊ぶ。
 気持ちよく明日を迎え、様々な人と会う。
 当たり前の日常が広島の町には広がっています。
 しかし、今年の春は違いました。
 当たり前だと思っていた日常は、ウイルスの脅威によって奪われたのです。
 当たり前の日常は、決して当たり前ではないことに気付かされました。
 そして今、私たちはそれがどれほど幸せかを感じています。
 75年前、一緒に笑い大切な人と過ごす日常が、奪われました。
 昭和20年(1945年)8月6日 午前8時15分。
 目がくらむまぶしい光。耳にこびりつく大きな音。
 人間が人間の姿を失い、無惨に焼け死んでいく。
 町を包む魚が腐ったような何とも言い難い悪臭。
 血に染まった無惨な光景の広島を、原子爆弾はつくったのです。
 『あのようなことは二度と起きてはならない。』 
 広島の町を復興させた被爆者の力強い言葉は、私たちの心にずっと生き続けます。
 人間の手によって作られた核兵器をなくすのに必要なのは、私たち人間の意思です。
 私たちの未来に、核兵器は必要ありません。
 私たちは、互いに認め合う優しい心をもち続けます。
 私たちは、相手の思いに寄り添い、笑顔で暮らせる平和な未来を築きます。
 被爆地広島で育つ私たちは、当時の人々があきらめずつないでくださった希望を未来へとつないでいきます。」
 
 信じることで世に打ち勝ち、未来を作ってゆく。そのような生き方へとわたしたちも自分を開いていきましょう。