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説教

早稲田教会で語られた説教をテキストで掲載します


2020年8月30日

「実を結ぶ」ローマの信徒への手紙 7:1〜6
 奥山京音伝道師

 
〈聖書〉ローマの信徒への手紙 7:1〜6 

 (1)それとも、兄弟たち、わたしは律法を知っている人々に話しているのですが、律法とは、人を生きている間だけ支配するものであることを知らないのですか。(2)結婚した女は、夫の生存中は律法によって夫に結ばれているが、夫が死ねば、自分を夫に結び付けていた律法から解放されるのです。(3)従って、夫の生存中、他の男と一緒になれば、姦通の女と言われますが、夫が死ねば、この律法から自由なので、他の男と一緒になっても姦通の女とはなりません。(4)ところで、兄弟たち、あなたがたも、キリストの体に結ばれて、律法に対しては死んだ者となっています。それは、あなたがたが、他の方、つまり、死者の中から復活させられた方のものとなり、こうして、わたしたちが神に対して実を結ぶようになるためなのです。(5)わたしたちが肉に従って生きている間は、罪へ誘う欲情が律法によって五体の中に働き、死に至る実を結んでいました。(61)しかし今は、わたしたちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています。その結果、文字に従う古い生き方ではなく、“霊”に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです。  

   
 これから皆様にお話しする事柄は、日曜の礼拝で教会牧師から聞いた話です。1998年10月7日にある悲劇が起きました。アメリカのワイオミング州でマシュー・シェパードという青年が同性愛者であることを理由に殺害されました。当時、彼は21歳でした。バーで出会った男性二人に連れ出されたマシューさんは、牧場地で何度も殴られた後、フェンスに縛り付けられ、そのまま18時間放置されました。その後、通行人の通報によって病院へ搬送されましたがマシューさんは、ピストルで殴られた頭部の損傷がひどく、五日後に亡くなりました。
 10月16日にマシュー・シェパードさんの葬儀が行われました。多くの人が悲しみを憶えて参列する中、問題が起こりました。教会グループに所属する教会員たちがあろうことか葬儀を妨害しました。「神は同性愛者を憎んでいる」と叫びながら妨害をしたそうです。また、マシューさんの葬儀を妨害した教会員が所属する教会牧師が、後日マシューさんの故郷の公園に石碑を寄贈しました。その石碑にはレビ記18章22節を引用して、神のことばに逆らったからマシューは地獄に落ちたというような内容が記されていたそうです。
 深く悲しまれた顔でこう語られた牧師は私たちに「皆様はどうお考えですか」と問いかけました。私は先生からこうした事件の話を聞いた時、各教会がこの課題に様々な考え方や捉え方があることを神学部の講義や教師から伺っていましたが、驚愕でした。クリスチャンを自認する人々がどうして?という疑問が浮かびました。率直な考えを申し上げますと、人間の醜さに恐怖を憶えました。
 この話を聞いた時、知り合いが私にこのように話してくれたことを思い起こしました。「クリスチャンは口では神だの愛だの語るくせに、行動では社会から弱くされている者を攻撃して排除している。そういった人間が神は愛と語るのは理解できない」。この言葉に対して、「そんなことはない。」と自信を持って強く否定することはできませんでした。言い表せないもどかしさを憶えました。もちろん、全てのクリスチャンが攻撃をし排除しているわけではありません。けれども篤い信仰心から神様に仕えたいと強く願うがゆえに、こうした問題や事件は多くあると思います。神様に仕えたい。神様のために役に立ちたい。神様のご計画に少しでも力になりたい。こうした篤い思いと同時に強い正義感も生まれます。その正義は全て「神様のため」にという思いから執行されていると私は考えます。
 ローマの信徒への手紙を執筆した人パウロも、強い正義感と篤い信仰心のもと、かつては間違った行動をしていました。
 
 本日、私たちに与えられました聖書箇所はかつてパウロが固く守っていた律法に関して例を用いて記されています。6章までパウロは罪の支配からの解放を語り、7章では律法の支配からの解放について説きます。本日の箇所、1節から6節は律法を夫と妻との関係に当てはめながら語っています。この時重要なのは、夫と妻という関係ではなく、律法と人間の関係であります。
 ここでごく簡単に律法に関して申し上げますと、律法とは神様から与えられたものでした。ユダヤ人にとって、神様から贈られた大切な約束を固く守ることは大変誇らしいことでした。パウロも、ユダヤの本土ではなく外国の町出身ではありますが、かつて、篤い信仰心から律法を固く守るだけでなく、周りにも厳守させようと熱心に伝道活動をしていました。律法を忠実に守ることこそが、正しいことであり、それに従わない人を迫害することは正義であると強く信じていました。パウロはかつての自分と律法の関係を、夫と妻との関係に喩えて話します。喩えに出てくる妻は、夫に縛られ自由になることを願いながらも自由になれない姿で描かれています。パウロはどうして、こうした比喩を用いたのでしょうか。それは、パウロ自身、比喩の妻のように束縛され解放されること、自由を求めていたのではないでしょうか。
 
 先ほども申し上げましたが、パウロは熱心に律法を固く守っていました。そうした生き方におそらく誇りを持っていたことでしょう。また、かつてのパウロの人生はユダヤ人としてのエリートコースを辿っていたものでした。それほどまでに、パウロは優秀であり敬虔であろうとしていたのです。そうした歩みを通じて、自分でも気づかないほどに、パウロは律法に束縛され、息苦しい生活を送っていたのではないでしょうか。
 自分が息苦しいと感じること、生きづらいと気づくこと、こうしたことを自覚するのは後になってからではないでしょうか。自分が束縛されていることに気づいていないために、自分の精神がすり減り、感情が傷だらけになっても限界になるまでは気づけないものではないでしょうか。パウロもそのうちの一人だったと考えます。律法を断固として守ることで、自分の心に傷が増えていくのをパウロは気づいていなかったと推測します。パウロが律法を固く守ることによって自分が死にかけていることに気づけたのは、イエス様の出会いにより律法から解放され、救われたからではないでしょうか。
 4節に「ところで、兄弟たち、あなたがたも、キリストの体に結ばれて、律法に対しては死んだ者となっています。それは、あなたがたが、他の方、つまり、死者の中から復活させられた方のものとなり、こうして、わたしたちが神に対して実を結ぶようになるためなのです。 」とあります。かつてのパウロは律法に支配されていましたが、キリストの体に結ばれて解放されたのです。律法に束縛された歩みから、キリストの体に結ばれた歩みへと新しくされました。7章4節後半に「神に対して実を結ぶ」と記されてあります。これまで律法に支配され縛られていたパウロはキリストの体に結ばれて死にました。その死は終わりではなく、神様に結ばれるための始まりです。パウロはキリストの体に結ばれて主イエスの十字架を通して律法の支配から解放され、神様に結ばれて新しく歩むことができるのです。
 5節に「わたしたちが肉に従って生きている間は、罪へ誘う欲情が律法によって五体の中に働き、死に至る実を結んでいました。 」とあります。ここで出てくる「肉」とは簡潔に申し上げますと神様を信じない心のことを指しますが、肉に従った歩みが神様に実を結んでいない状態を指すことから、神様の御心から離れた歩みと捉えることもできると私は考えます。「肉」は「霊」の反対の言葉として用いられています。パウロが正しいと信じて律法を忠実に守っていたとき、実はパウロは霊に従って生きているのではなく、肉に従って生きていたのです。パウロが行なっていた正義は「神に対して実を結ぶ」ことができていませんでした。
 
 さて、冒頭でお話ししました事件に関して、もう一つの出来事をご紹介します。マシューさんの事件の裁判や葬儀には同性愛反対者によるデモがありました。そのデモに対して、マシューさんの友人たちは白い天使の服装で、デモをする人々の周りを静かに囲みました。デモをする人に対して怒鳴るでもなく、叫ぶでもなく、ただ静かにデモの人々をまるで包み込むかのように囲んだのです。このマシューさんの友人たちの行動は「Angel Action」と呼ばれています。心無いヘイトデモに対して、暴言を吐く、力で対抗するといった行動では、なんの解決にもならないとマシューさんの友人たちは深く理解していたのではないかと考えます。そして、人間が傲慢にも神様に成り代わって相手を裁くようなことは何の実も結ばないと考えたのかもしれません。この「Angel Action」を知った時、次の聖句を思い起こしました。ローマの信徒への手紙13章10節「愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです。 」
 律法に支配されていたパウロはキリストの愛の中に立って初めて自分が解放されたいと願っていたこと、息苦しさを感じていたこと、肉に従って生きることの不自由さに気づいたのではないでしょうか。パウロが肉に従って生きていたこと、律法に支配され息苦しさを感じていたこと、こうした姿は私たちにも通ずるものがあるのではないでしょうか。人間として、クリスチャンとして、こうしなければいけないと自分を縛りつけ、息苦しく感じてはいないでしょうか。またそれを他者にも強く勧めるあまり相手を裁いてしまうことはないでしょうか。自分の正義にこだわって、神様に実を結んでいないことは、神様を切に祈り求めることのできない不信仰よりももっと恐ろしいことだと語る説教者がいます。
 霊に従う歩み。神様に実を結ぶための歩み。こうした歩みは一体どういう歩みなのか、今一度考え直したいと願います。息苦しさを感じる歩みが、霊に従う歩みでしょうか。自分の正義感の下、他者を裁くことが神様に実を結ぶ歩みでしょうか。私たちはイエス・キリストの十字架と復活によって、罪が贖われ新しい生き方を始めることができました。それは神様に実を結ぶためです。支配された息苦しい生き方ではなく、神様に実を結ぶために霊に従って歩みたいと強く願います。
 しかし、いったい霊に従った歩みとはなんでしょうか。それはどういった歩みでしょうか。マシューさんの葬儀に反対デモをしたクリスチャンも、マシューさんの故郷の公園に石碑を贈った牧師も自分が肉に従っているとは夢にも思っていないことでしょう。「神様のため」に下した正義は、霊に従った歩みと強く信じていると思います。反対に、マシューさんの友人が「親愛なる隣人のために」行った「Angel Action」はいかがでしょうか。この行動にこそ、霊に従った歩みが示されているのではないでしょうか。こうした行動を憶えて、新しい一週間も「神に対して実を結ぶ」、霊に従った歩みで進んで行きたいと願います。自分の正義にこだわり、隣人に悪を行うのではなく、どんな時でもイエス様が私たちを愛してくださったように、イエス様の愛を持って神様に仕え、隣人に仕えるそんな私たちでありたいと強く願います。