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説教

早稲田教会で語られた説教をテキストと音声データで掲載します


2020年9月6日

「もやい直し」 コリントの信徒への手紙一 12:22〜27
 古賀 博牧師

 
〈聖書〉コリントの信徒への手紙一 12:22〜27

(22)それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。(23)わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。(24)見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。(25)それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。(26)一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。27あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。

 

 
 今日は「コリントの信徒への手紙一」12章から読んでいただきました。宛先であるコリント教会は、パウロの第二伝道旅行によって成立し、短期間に急成長を遂げた群れでした。当初は人数も少なく、霊的にも貧しかったのですが、成長を遂げ、人的・霊的な賜物に恵まれた優れた教会と周囲から賞賛を得るようになりました。当時のキリスト者たちが憧れる、そんな群れだったと聞いています。
 ところが、この教会は幾つもの問題をも抱え込んでおり、著しい混乱や対立が生じていました。コリント教会の抱える現実の内で最も深刻であったのは、信者どうしが教会内で審き合い、一方的にある者たちを切り捨てているという現実でした。
 コリント教会の実状を伝え聞いたパウロは、勧告の手紙を書いて主の福音への立ち返りを祈り求めました。こうして記されたのが、「コリントの信徒への手紙一・二」です。
 
 大きな混乱や問題を抱えていたコリントの教会。幾つかの分派が教会内に存在し、どちらの信仰が本物であるかを論争していました。それらは特に賜物の評価を巡って深刻さを増していました。
 賜物とは、神によって与えられた個性や能力、その人らしさであるといって良いかと思います。当然、さまざまな違いや多様性、幅というものがあります。ところが、これこれこういった賜物は認めるが、自分たちの評価基準に達していない個性や能力は認めない、あるいは自分たちの評価基準でどちらの賜物が優れているのかを決定し、評価基準に適合しているものを重んじる、そんな評価基準を勝手に定めて、それに照らして信仰の大きさ・深さをはかる、そんな状況が生じていました。
 コリント教会では、賜物においてプラスの評価を得た者たちが実権を握ることになりました。彼らは、賜物に欠けた人々を信仰の弱い者と勝手に判断し、こうした人々を共同体を教会を形成し、活動していこうと考えていたのです。このようなコリント教会の混乱、悲しい信者切り捨ての実情を伝え聞いたパウロは、群れの現実を嘆きつつ、しかしなおもこの群れをも愛して、キリストの福音に立ち返らせようと、この手紙を書いたのでした。
 
 そうした「コリントの信徒への手紙一」において、パウロの教会観を如実に示しているのが12章です。長い箇所ですから、今日はその終盤部分を読んでいただきましたが、この箇所でパウロは「からだ」の比喩を用いて、主にある共同体、教会の姿を実に印象的に宣べ伝えています。
 私たちのからだは多くの部分の繋がりにより成り立っている、一つのからだに繋がる一つひとつの部分の働きによって、そうした多様性を保ってからだ全体は構成されている、だからどの部分が必要で、どこは不必要だとは言えない、全ての働きが相まってからだが正常に機能するように、「キリストのからだ」なる教会も同じであると、パウロは主にある共同体のあり方について教えています。
 今日の箇所、22節以下に次のように宣べ伝えています。
 「それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです」。
 ここにパウロの語るメッセージは、この世の合理性に立っては思い至ることのできない、そんな感覚、言説ではないでしょうか。人間的な思いの帰結は、まさに当時のコリント教会を支配する人々の考え・行いそのものです。自分たちの判断を絶対化して、人や関係に優劣をつけ、自分たちから見て弱い者・欠けたる者・小さい者は切り捨てる、こうした業が教会共同体を強化するのであり、結果として主に喜ばれることだと、彼らはその信仰において堅く信じていたのです。
 このようなあり方を示していたコリント教会に対して、パウロは、主イエスの福音にこそ立って強く勧めています。25節以下にこうあります。「それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです」。
 
 今日の説教題とした「もやい直し」とは、日本の四大公害病の一つである水俣病患者たちの活動の中から生み出された造語です。
 あるネットの辞書は、「もやい直し」に関して次のように記しています。“「もやう」とは船と船をつなぎ合わせること。「ばらばらになってしまった心のきずなをもう一度つなぎあわせる」という意味の造語で、水俣病被害者が提唱し始めたとされる。吉井正畝元水俣市長が使うようになって広まり、水俣地域再生の合言葉のように使われている。水俣病をめぐる差別や偏見、分断された人間関係をつなぎ直すことで、水俣再生の土台を作り、また皆の意識を変える原動力として用いられてきた”。
 水俣において作られ、用いられてきた「もやい直し」との言葉、この言葉が生み出された背景には、水俣病をめぐる厳しい差別や偏見というものがあり、同じ地域に暮らしていながらも、この病のために否応なく分断されていった人間たちの過酷な現実があるということが推察されます。
 水俣病の舞台となった不知火海は、八代海とも呼ばれ、熊本県南部から鹿児島県北部に広がる小さな海域です。人々はここで漁を営み、穏やかな生活を送っていました。そんな地域に1908年(明治41年)に日本窒素工業(後のチッソ株式会社)が工場を建て、化学肥料の生産を始めます。高度経済成長期に会社は大きくなり、地域の発展にも貢献します。しかし、この工場は毒性の強いメチル水銀を含む有害な廃水を海に流し続けていました。このため水俣湾は酷く汚染。生物濃縮と食物連鎖によって近海の魚が高度に汚染され、こうした魚を知らずに食べ続けた水俣地域の人々からメチル水銀中毒の患者が多く発生することになったのでした。
 この公害病は水俣病と名付けられ、1956年に初めて認定されます。当初は伝染する病との誤解があり、患者たちは病院内で隔離され、その家族を含めて厳しい差別・偏見を受けました。風土病などの誤解も起こって、水俣出身者というだけで就職や結婚も拒絶されたため、地域には患者たちを疎ましく思う雰囲気が強くなり、患者と家族、支援者、それ以外の住民との関わりは次第に破壊されていきました。
 著しく分断され、対立する地域を再生させ、そこに生きる人々を繋ぎ合わせていく、この課題のために「もやい直し」という言葉が作られ、用いられているそうです。
 水俣で生まれた「もやい直し」という言葉は、湯浅誠さんたちが貧困問題に対処するために東京に立ち上げた路上生活者のサポートセンター「もやい」(2001年活動開始)にも繋がっていきます。
 
 8月6日、広島平和記念式典において松井一実広島市長が「平和宣言」を発表されました。今回の宣言に松井市長は「連帯」という言葉を5回も用いられたのです。
 「連帯」と語られた文節だけを短く紹介します。「およそ100年前に流行したスペイン風邪は、第一次世界大戦中で敵対する国家間での『連帯』が叶わなかったため、数千万人の犠牲者を出し、世界中を恐怖に陥れました」、「私たち市民社会は、自国第一主義に拠ることなく、『連帯』して脅威に立ち向かわなければなりません」、「悲惨な過去を繰り返さないように『連帯』して立ち向かうべき」、「今の広島があるのは、私たちの先人が互いを思いやり、『連帯』して苦難に立ち向かった成果です」、「唯一の戦争被爆国として、世界中の人々が被爆地ヒロシマの心に共感し『連帯』するよう訴えていただきたい」。
 新型コロナウイルス感染症との闘いの最中に迎えた広島平和記念式典において、日本と世界の現在を見据えて、「連帯」ということが強く主張されたのは、最初の二つの語りから明らかだと思わされています。かつてのパンデミックにおいて、「連帯」できなかったため多くの犠牲者を生んだこと、今回の危機的事態は、身近では自分中心が目立ち、国際政治的には自国第一主義が声高に叫ばれるようになっていること、こうした現実に向かって、松井一実広島市長は「連帯」を、つまりは広く・堅く・強い結びつき、協働して事柄に対処していくあり方を訴えたのではないでしょうか。
 8月20日、アメリカでは民主党の大統領候補として指名を受けたジョー・バイデン氏が演説で「脱分断」を強調して、国内外の共存が呼びかけましたし、現在行われている日本の自民党総裁選挙でも、候補者の一人は「分断から協調へ」をスローガンにしています。
 こうした宣言や演説に触れ、改めて現状における私たちの祈りの課題が何であるかを思わされ、また今回の学びを通じて「もやい直し」という言葉にも出会いました。
 
 新型コロナウイルス感染症が蔓延している現在の状況において、人と人との分断や関係性の希薄化が大きな課題となっています。それと同じ状況は社会のさまざまな場所で、国どうしの関係においても顕著になっています。そうした状況を踏まえながら、私たちは主イエス・キリストを信ずる者として、主の福音にしっかりと立ち、分断や分裂の現実を「もやい直し」ていく、“ばらばらになってしまった心のきずなをもう一度つなぎあわせる”、こうしたことのために心から祈り、力弱くとも何らかの働きを担っていきたいと願います。教会における、またごく身近な関係を大切にし、そしてそこにだけとどまることなく、広く周囲・社会・世界の現状を見つめ、広く信仰的なアプローチを為していく、そうしたことを現在における信仰の課題としていきたいと願います。
 最後にパウロの語りをもう一度聴きたいと願います。25節以下です。「それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです」。私たちの有する、また私たちを取り囲む一つひとつの関係に、この福音を活かして進みたいと願います。