説教
早稲田教会で語られた説教をテキストで掲載します。
2020年9月13日
「神の豊かな恵み」エフェソの信徒への手紙 1:1〜14
奥山京音伝道師
〈聖書〉エフェソの信徒への手紙 1:1〜14
(1)神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロから、エフェソにいる聖なる者たち、キリスト・イエスを信ずる人たちへ。(2)わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。(3)わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。
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2020年1月14日に世界保健機関が正体不明のウイルス性肺炎を、新型のコロナウイルスと認定し、その2日後に日本の厚生労働省が初めて国内で感染者を確認しました。そこから新型コロナウイルスの影響は着実に広がっていき、早稲田教会も影響を受けて4月から7月までの3ヶ月間無会衆で礼拝を捧げていました。そうした中で、皆様から伺ったのは私たちが当たり前にしていた一つの大きな恵みでした。「私たちは、当たり前のように礼拝堂に集い、礼拝を捧げていたがこれは大きな恵みであり決して当たり前のことではなかった。」「ウイルスの影響は確かに厳しいが、そうした危機的状況に遭ったからこそ、気づかされたこともある。」こうした声を大変多くの方から伺いました。
皆様の言葉を思い起こしながらこれまでを振り返ってみますと、台風でも大雪でも教会は開かれていました。天候が不安定でも、交通面に困らない限りは兄弟姉妹が招かれ礼拝堂に集っていました。礼拝を無会衆で捧げるようなことはまず有り得ないことでした。
しかしながら、4月5日日曜日に私たちは断腸の思いで無会衆の礼拝を捧げることを決断しました。この決断に至るまで多くの方が悩み苦しみ、教会を憶えていらっしゃいますこと、そうした中でも隣人を思いやる配慮として苦渋の決断と向き合ったことに大変心が痛みました。心の痛みはそれだけに留まりませんでした。
皆様に一度申し上げましたが、礼拝を無会衆にしてから毎週日曜日に閑散とした礼拝堂に向かって喋りかけることに虚無を感じていました。こうした出来事を振り返りますと、これまで日常として過ごしていた礼拝堂に集うことの喜び、人と交わることの温かさが、毎日与っていた恵みであったと気づかされました。私は傲慢にも「恵み」を与っていることを失念し、いつしか「恵み」への感謝を忘れていたと猛省しました。
さて、本日私たちに与えられました聖書箇所は獄中書簡の一つである「エフェソの信徒への手紙」です。このエフェソの信徒への手紙に関しまして、簡潔に申し上げますとこの手紙は、筆者は不明ですがパウロの思想を受け継いだ人が書いたと考えられています。ある説教者によると、「エフェソの信徒への手紙」は「宇宙のキリスト」という視点を持っています。パウロの手紙は各教会に個別で緊急の諸問題を、時に勧告し、時に警告していました。それに対して、「エフェソの信徒への手紙」は特定の教会に宛てたものではなく、全ての教会が抱えている普遍的な課題を取り上げながら、教会は一つであるということを強く主張しています。ここで語られている教会論がキリストに基づきながら宇宙的な視点を持って展開していることから、「宇宙のキリスト」と言われているのだと考えます。エフェソの持っている宇宙的な視点に関して申し上げますと、1章4節、10節から12節に記してありますように、天地万物、創造の広がりが非常に広大なものとのイメージで語られています。ある意味で宇宙的な広がりがキリストに基づいて考えられていることから「宇宙的キリスト論」などと言われます。
申し上げました通り、「エフェソの信徒への手紙」は特定の教会に宛てたものではなく、いくつかの教会に宛てたものであるため、1章1節にあります「エフェソにいる聖なる者たち 」というところは、地域によって名前が変わっていました。こうした背景を踏まえると、「エフェソ」という地名を「早稲田」に読みかえ、今を生きる私たちにも向けられた手紙だと考えました。
さて、本日の箇所で特に注目したいのは「恵み」との語りであります。1章2節には「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。」とあります。この「恵み」と「平和」は重要な主題であり、特に恵みは2節以降10回用いられていることから、筆者が繰り返し何度も読み手に伝え、心に留めてほしいという思いがあったと推測します。
この書簡は伝えたい言葉を相手に印象深く心に留めておきたいという筆者の強い思いがあったのか、様々な言い回しを使い、表現の仕方を変えて繰り返し伝えようとしています。こうした文体上の特色も「エフェソの信徒への手紙」の特徴と言えます。こうした特徴を見ると、筆者が冷静に論じようとしているのではなく、神様の計り知れない恵みの豊かさを伝えたい、神様を心から賛美する喜びが伝わってきます。特に3節から14節は神様への賛美の言葉であふれています。このように、神様の賛美であふれ、喜びに満ちているのはなぜでしょうか。それは、私たちの罪がキリストによって贖われたからです。7節に「わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。 」とあります。イエス様が私たち人間の罪のために十字架につけられ、私たちを罪から解放してくださり、イエス様によって神様からの恵みを受けることができるようになりました。
7節で使用されている「贖い」という言葉は、奴隷や捕虜、囚人を解放するために身代金を払うことです。これが当時の奴隷制に見られる背景でした。奴隷や捕虜、囚人は主人の所有物であります。これらのことを踏まえて、整理しますと罪に縛られていた私たちは罪の奴隷、捕虜、囚人であり、神様はひとり子であるイエス様を私たちが罪から解放されるために身代金として、捧げてくださいました。イエス様が私たちの罪のために尊い血を流し、それによって私たちは罪から解放され、神様に仕える者となりイエス様によって神様の御心にそって神の子として恵みを与かることができるようになりました。
「恵み」と聞くと、自分が欲しいものを与えてくれるのだと私は想像してしまいますが、その恵みは必ずしも私たちが欲しいものではないのだと、この情勢の中で学びました。同時に、欲しいものではなくても必ず必要なものを備えてくださる神様の慈愛を感じました。
本日の箇所を黙想しながら、ウイルスの影響によって得た体験を通して、ニューヨーク市立大学病院の壁に書き記された詩を思い起こしました。
「大きな事を成し遂げるために
力を与えてほしいと神に求めたら
謙遜を学ぶようにと弱さを授かった。
より偉大なことができるようにと健康を求めたのに
より良きことができるようにと病弱を与えられた。
幸せになろうとして富を求めたのに
賢明であるようにと貧困を授かった。
世の中の人々の賞賛を得ようとして成功を求めたのに
得意にならないようにと失敗を授かった。
人生を享楽しようとあらゆるものを求めたのに
あらゆることを喜べるようにといのちを授かった。
求めたものは一つとして与えられなかったが
願いはすべて聞き届けられた。
神の意に添わぬ者であるにもかかわらず
心の中で言い表せないものはすべて与えられた。
私はあらゆる人の中でもっとも豊かに祝福されていたのだ」
私たちは、7月から一定の条件を設けて礼拝堂に会衆を招くことができるようになりました。その中でも、隣人への配慮として、兄弟姉妹の健康と安全を守るために家に留まって礼拝を捧げる方もいらっしゃいます。また、そうした方が自宅で礼拝を捧げることができるように、神様が兄弟姉妹を派遣してくださりネットを用いてライブ配信ができるようになりました。冒頭でも申し上げましたが、私が閑散とした礼拝堂に虚無を感じることをここで話しましたら、後日、兄弟姉妹からお声掛けをしていただき、その言葉一つ一つに繋がりを感じ自分が独りではないことを改めて確認することができ、皆様のお祈りと思いに支えられ励ましを受けました。望んだ願いとは異なっても、こうして神様からの豊かな恵みを受けていることを感じました。
1日でも早く、教会に人が集うことを願います。その願いは未だ叶うことはありませんが、それでも神様は私たちに恵みを豊かに与えてくださいます。それは願った通りのものではないかもしれません。けれども、私たちはキリストによって豊かに祝福され、心の中で言い表せない恵みを与かることができています。その恵みに応えて、新しい一週間も神様を賛美して歩んでゆきたいと願うものであります。