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説教

早稲田教会で語られた説教をテキストと音声データで掲載します


2020年10月4日

「十字の横に三つの力(その1)ヨハネによる福音書  17:20〜26
 古賀 博牧師

 
〈聖書〉ヨハネによる福音書 17:20〜26

「…(20)また、彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。(21)父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。(22)あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。(23)わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります。(24)父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください。それは、天地創造の前からわたしを愛して、与えてくださったわたしの栄光を、彼らに見せるためです。(25)正しい父よ、世はあなたを知りませんが、わたしはあなたを知っており、この人々はあなたがわたしを遣わされたことを知っています。(26)わたしは御名を彼らに知らせました。また、これからも知らせます。わたしに対するあなたの愛が彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいるようになるためです」。

 

  
 10月の第1主日は「世界聖餐日」です。私たちの教会ではこの10年ほど、この日にアジア学院から研修生をお招きしてきました。アジアやアフリカの教会やキリスト教団体より送り出されてきた研修生に説教をお願いし、聖餐式にも共に与ってきたのです。礼拝後の愛餐会を通じて、さらにさまざまにお話を伺うことから、世界の教会やキリスト教団体の活動や祈りに学び、キリスト教を広く理解し、世界のキリスト者たちとの繋がりを深めようと努めてきました。
 ところが今年は、新型コロナウイルス感染症により、そうしたことの全てができなくなってしまっていることを、とても残念に感じています。
 例年とは異なった形で「世界聖餐日」を迎えた訳ですが、今年度は原点に立ち戻って、そもそも「世界聖餐日」はいつ・どのように定められてきたのか、そして何を課題としてきたのか、また「世界聖餐日」の射程はいまの私たちとどのような関係を有しているのか、こうしたことを皆さんと共に聖書のみ言葉を巡って考える、そんな機会としたいと願っています。
 
 「世界聖餐日」(World Comunion Sunday)は、90年ほど前、1930年代にアメリカの長老教会において始められました。世界のキリスト者が共に主の食卓につくことによって一致できるように、また互いの教会や教派の違いを認め合い、違いがありながらも主の福音に集中することで、そのような違いの一つひとつは乗り越えることができる、このような祈りや信仰の確信の下に形成されてきたのです。
 第二次世界大戦の開始の直前、さまざまな領域で対立が深刻化していたアメリカにおいて、キリスト教協議会(NCC)の前身であるアメリカ連邦教会協議会によって、激化する教派間の対立や分裂を乗り越えようとの祈りの下に、「世界聖餐日」にはエキュメニカルな祈りの日との意味が付け加えられます。1940年のことです。
 戦後、1948年に世界教会協議会(WCC)が結成されました。WCCの活動を通じて「世界聖餐日」は世界に広まり、毎年10月第1日曜日に世界中で祝われています。WCC本部はスイスのジュネーブにありますが、本部前に一つの聖句が刻まれているそうです。「ヨハネによる福音書」17章22節、「わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです」というみ言葉が刻まれているとのこと。このみ言葉に立って、WCCはエキュメニカルな運動や活動をこれまで力強く推進してきたのです。
 
 YMCAがその正章(マーク)の中心に表示しているのも、「ヨハネによる福音書」17章の21節です。17章21節にはこのようにあります。
 「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください」。
 この聖句の内、「すべての人を一つにしてください」をYMCAはその団体の使命としてきました。これは、YMCA運動がその出発からキリスト教諸教会の一致、また世界中の人びとのキリストにおける一致を願ってきた事実を表しています。
 ある本に、学生YMCAとWCCとの関わりが次のように記されていました。“各国の学生YMCAの連合団体が世界学生キリスト教連盟であるが,各国の教会の内外で超教派的な協力一致運動を展開し、世界教会協議会に結実をみた近代のエキュメニカル運動の指導的人物を多く輩出した”。WCCの結成に学生YMCAの担った役割は大きかったと知ることができました。そして双方がエキュメニカルを使命・基盤としているが故に、自らの使命や方向を表す聖句も「ヨハネによる福音書」17章からで、21節、22節と隣り合っているのでしょう。
 WCCやYMCAが使命としているエキュメニカルとは、キリスト教の教派を超えた結束や一致を目指す運動や取り組みを意味しています。現在ではより幅広く、キリスト教を含む諸宗教間の対話・協力をも指すようにもなってきました。
 私たちの教会の母体、早稲田奉仕園は「エキュメニカルな国際学生センター」と自らを言い表しています。ここにもエキュメニカルということが言われ、これは早稲田奉仕園の基本精神であると共に、早稲田奉仕園から生まれた早稲田教会においても大切にすべき姿勢であろうかと思います。この点に関しては、次回(10月25日)にその2と題して、この点に詳しく触れたいと思っています。
 
 「世界聖餐日」の出発から、随分と話を広げてしまいましたが、今日の聖書箇所、「ヨハネによる福音書」17章20節以下を共に読んでいきたいと願います。
 17章は、16章までに語られた受難を目前にしての主イエスの決別説教(遺言)に続く祈りを記しています。17章全体が主イエスの弟子たちに向けた祈りなのです。
 この章での主イエスの祈りは「父よ、時が来ました」(1節)と、自らの受難・十字架を目前に控える切迫した状況の中での、神への呼びかけに始まっていきます。
 17章の6節から19節は、いま目の前にいる弟子たちのための執り成しの祈りでありますが、それを受けて今日の20節から26節では、後の弟子たちのため、あるいは主イエスに従わない者たちをも含んでいるこの「世」、これはこの世界という意味ですが、世界全体への執り成しの祈りとなっています。
 今日の文節の最初(20節)には、「また、彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします」とあり、これは未来のキリスト者へ向けられた祈りです。この言葉から、各時代のキリスト者たちはいま自分たちへ向けられている主イエスの祈りだと、この箇所を深い想いで受けとめてきました。
 
 現在の、そして将来のキリスト者たちに、主イエスは何を強く祈り願われたのかを21〜23節から聴き取ることができます。再度21〜23節を読みます。
 「21父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。22あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。23わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります」。
 父なる神と子なるキリストの切り離せない深い結びつきと同質性、これと同じあり方で、すべての人が堅い結びつきで一つとされるように、さらにすべての人が神とキリストの交わりの内に置かれるように、そうすれば神が御子を世の救いのために送ったことが明らかにされ、神・キリストが広く信じられると祈られています。
 22節では、神がイエス・キリストに与えてくださった栄光が、「一つのなること」を志向するキリスト者たちに同じく与えられると宣べ伝えられています。
 キリスト者と主イエスの関係は、神とキリストと結びつきを写し出し、完全に一つとなるためのものだと証されています。この証によって、広くこの世に神の愛が届いている事実を受けとめることになる、というのが23節の祈りです。
 これら3つの節で、さまざまな違いを有していながらも主にあって「一つのなること」が神の愛を宣べ伝える証に他ならないと、主イエスによって祈られています。
 
 今日の箇所に関して加藤常昭牧師が説教に語っておいでのことに心を打たれました。「一つのなること」との主イエスの語りがこの箇所の中心だが、このみ言葉は自分を刺し続ける針だと、意図的にこの言葉に注目するのを避けていたと告白されています。これはなぜでしょうか、それはご自分の属する日本キリスト教団においても、主が祈られている一致を見出し難い、そんな現実が多くあるからでしょう。
 それでも「一つのなること」の射程には、ただ教会やキリスト者だけが含まれるのではなく、この世界の一致も含意されていることを忘れてはならないと、敢えて「一つのなること」を語り、次のようなエピソードを紹介しておられるのです。
 “ボスニアでようやくクリスマス休戦の約束ができたと聞きました。しかし、そのニュースを告げているところで、(調停書)にサインしている明石(康)国連代表の顔が映った後で、ボスニアのひとりの婦人が「わたしはあの日本人を信じない」と語っているのが、画面からはっきりと聞こえてきました。ひとつになっていない(のです)。そういう言葉を聞かされながら(も)、(なお)平和のために努力をしている日本人がいる。…教会の中にも争いがある。私どもも…ひとつではないのです”。
 1994年のクリスマスに語られた説教。その年の1月、国連代表として明石康さんはカンボジアから旧ユーゴスラビアに赴任し、ボスニアの停戦のために働かれ、12月23日に敵対行為停止協定が結ばれたのでした。このことを報じるニュースを観ながら、この世界に現存する厳しい対立や分裂に心を痛め、さらに身近な教会や所属教団の抱える現実をもしっかりと見据えて、それでもと語りが続けられています。
 “(このような現実に)対抗できるのは、主イエスがここで「すべての人は一つになる」と(祈りつつ)決意していてくださる、(力強く)約束していてくださるという事実に立つ以外にない”(のです)。
 この語りに深い感動を憶えました。不一致、分断や分裂を私たちもさまざまに経験し、厳しい現実を前にしてかなり打ちのめされているようなところがあります。このコロナ禍の下、さまざまな場や関係での不一致、分断は深刻さを増していることを悲しくも感じています。
 それでもなお、私たちは諦めないでもう一度、祈りや取り組みに向かうことへと導かれています。それは加藤常昭牧師が語り継がれたように、主イエスの執り成しの祈り、その背後にある揺るぎない主イエスの確信、まさに主が命がけで宣べ伝えてくださった福音がいまも確かに響きわたっているからではないでしょうか。
 
 「世界聖餐日」は1930年代に出発し、以降さまざまな要素を加えながら形成されてきました。この時、主イエスの祈りに導かれて世界の教会が共に確認している課題を憶えたいものです。そして、改めてキリスト者・教会、加えてこの世界が「一つのな」りますようにと、主の励ましの下に祈り、取り組んでいきたいと願います。