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説教

早稲田教会で語られた説教をテキストで掲載します


2020年10月18日

「わたしたちの平和」エフェソの信徒への手紙 2:11〜22
 奥山京音伝道師

 
〈聖書〉エフェソの信徒への手紙 2:11〜22 

 

 (11)だから、心に留めておきなさい。あなたがたは以前には肉によれば異邦人であり、いわゆる手による割礼を身に受けている人々からは、割礼のない者と呼ばれていました。(12)また、そのころは、キリストとかかわりなく、イスラエルの民に属さず、約束を含む契約と関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていました。(13)しかしあなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。(14)実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、(15)規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、(16)十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。(17)キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。(18)それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。(19)従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、(20)使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、(21)キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。(22)キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。

 

 
 相田みつをさんの作品で、「セトモノ」という詩を皆様はご存知でしょうか。著作権の関係もあり、その詩そのものをここで紹介することはできませんが、簡単に申し上げますと焼き物の瀬戸物を人間関係と重ねて表現している作品です。詩の中で出てくる「セトモノ」とは瀬戸焼のことを指します。瀬戸焼は愛知県瀬戸市で作られる焼き物の総称です。
 瀬戸物は様々な種類や特徴を持っています。例えば陶磁器の陶器は「土もの」と呼ばれており、陶土という白色の粘土で作られています。一方で磁器は「石もの」と呼ばれており、陶石という原料を砕いた粘土で作られています。陶器はあたたかな味わいがあり、磁器は白くガラスのような滑らかさがあります。
 こうした焼き物に見られる様々な特徴や違いを、人の個性と重ねて相田さんは詩を書いたのではないかと想像します。私たちにもそれぞれに違いがあると思います。人には見た目や内面に特徴や個性を持っています。それは大まかに枠組みすることはできますが、注意深く見るとグラデーションのように一人一人に違いがあると思います。種類豊富な瀬戸物がぶつかり合うと壊れてしまう、そのように相田さんはおっしゃるのです。焼き物が勝手にぶつかり合うとは不思議な表現ですが、ここで相田さんはセトモノを人間に置き換えて、ぶつかり合ったら壊れてしまう一連は人間関係を表しているのだと想像します。人間の心を瀬戸物のように硬いけれども何かの衝撃で一瞬で砕けてしまう繊細な心と表現し、その心が衝突し合っている様子を想像すると、少しドキッとします。それは私もまた「セトモノ」であるからです。瀬戸物のように心を硬くするのではなく、柔らかい心を持ちたいと願いつつも私は今日も「セトモノ」として過ごしています。
 さて、本日の聖書箇所に移りたいと思います。これまで、キリストにおける神様の働き、栄光が記されていました。2章後半でもそれは変わらずに、ここでは過去と現在を比較して神様から遠く離れた者からキリストの十字架と血によって近い者となったと説いています。近い者、遠い者、とはどう言うことかが、11節12節に記してあります。「だから、心に留めておきなさい。あなたがたは以前には肉によれば異邦人であり、いわゆる手による割礼を身に受けている人々からは、割礼のない者と呼ばれていました。 また、そのころは、キリストとかかわりなく、イスラエルの民に属さず、約束を含む契約と関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていました」。
 11節の「割礼のない者」、12節の「キリストとかかわりなく」とは、異邦人のことを指しています。当時、異邦人とユダヤ人とが神の救いに関して対立していたのではないかと考えます。パウロは、そうした教会内での争いを仲裁するために手紙を送っていました。エフェソ書に関して初めに皆様に申し上げましたが、エフェソ書は当時各教会が持っていた普遍的な課題に関して記し、エフェソという箇所を送る地域によって変えていました。つまり、異邦人とユダヤ人、外国人と寄留者と各教会にて対立していたのではないでしょうか。このような対立は、現代の私たちにもあることだと思います。
 「平和を求める人がいるのになぜ平和は訪れないのか」という質問があり、それに関してある説教者は「平和と平和が争っているからなくならないのではないか」と答えました。とても興味深い意見だと思います。その先生も仰っていましたが、人間は自分が持っている正義で平和を作っていると考えます。けれどもその正義は人によって異なっており、自分が持つ正義と正義が、平和と平和が対立して、結局は平和が争いを生んでいるのではないかと私は考えます。そのようにして冒頭でご紹介しました相田みつをさんの詩「セトモノ」を思い起こしました。人間が持つ正義も、瀬戸物のように様々な種類があって個性があって、善し悪しがあると思います。けれども自分の正義にこだわると、他人の正義と対立する時があります。そうしてセトモノとセトモノがぶつかり合って壊れてしまうように、多くの人が平和を求めて傷つくのではないでしょうか。それぞれの正義と平和を守るために対立し、その間に「敵意という隔ての壁」が立ったのだと想像します。
 さて、ではどうしたら平和が訪れるのでしょう。私の平和ではなく、私たちの平和であることが重要なのではないでしょうか。自分が持っている正義にこだわって、自分の平和を通すために対立するのではなく、私たちの平和であるキリストと平和の福音を宣べ伝えることが求められているのではないでしょうか。セトモノとセトモノがぶつかり合って壊れてしまうのではなく、柔らかい心で関わっていくことが求められていると考えます。
 「セトモノ」という詩は、人間がセトモノでありぶつかり合っていることを指摘し、ぶつかり合うのではなく柔らかい心を持って歩んでいきましょうというメッセージを、読者に向けています。
この詩は最後に一言自分もセトモノであることを告白して終わります。これまで、あなたたちはこうですよ、だからこうしていきましょうよ!と呼びかけていても、そんな自分もそのうちの一人、みなさんと同じ「セトモノ」に違いないと告白する、この部分が一番心に響きました。
 聖書にもキリスト者としての歩みが記されてあり、そのように歩んでいくよう私たちは求められています。今日の箇所で言いますと、私たちは神の家族であり、キリストの十字架を通して対立していた私たちは1つとなり、隔ての壁がとり壊され和解し、十字架によって敵意を滅ぼされたのです。キリストによって平和の福音が告げ知らされ、それを私たちは世へと広めていく、キリストの平和を宣べ伝えていくことが求められているのだと考えます。
 頭で理解していても、私はいつも「セトモノ」です。自分で柔らかくはできません。こうした私の現実をキリストに変革していただく、これが大切なのだと思います。14節に「実に、キリストはわたしたちの平和であります。」と記してありますように、筆者はここで自分が平和と主張してはいません。自分の平和、自分の正義を読者に押し付けていないのです。キリストこそが私たちの平和であると告げました。ここで注意したいのは、私たちは神のためと称して自分が考える「キリストの平和」を他人に強要し、応じなければ裁くような誤った行為に走らないよう気をつけなければいけません。それは自分が持っている正義と変わらず、新しい敵意という隔ての壁が建つだけです。それでは「セトモノ」のままではないでしょうか。
 人間は自分が持っている平和を主張するのに対して、神様はご自身の平和を突き通して受け入れないものに敵意を抱くお方ではありません。自分の平和を主張した人間に対して、神様は愛を持って大切なひとり子をお与えになりました。その愛を受け入れず、人間はキリストを十字架につけました。それでも神様は敵意を抱くのではなく愛を貫き通してくださいました。イエス様がこの世にお出でにならなければ、人間はいつまでも自分の平和にこだわり、隔ての壁はますます高く強固になり、神様とはどんどん遠く離れていくのではないかと想像します。
 「十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされ(2:16)」私たちは「外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族(2:19)」となりました。私の平和にこだわるのではなく、わたしたちの平和であるキリストに倣って歩んでゆきたい、そのように求めることを赦されたセトモノでありたいと願います。