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説教

早稲田教会で語られた説教をテキストと音声データで掲載します


2020年5月17日

「身体の距離、心の距離」 コリントの信徒への手紙二 1:3〜11
 古賀 博牧師

 
〈聖書〉コリントの信徒への手紙二 1:3〜11

(3)わたしたちの主イエス・キリストの父である神、慈愛に満ちた父、慰めを豊かにくださる神がほめたたえられますように。 (4)神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。(5)キリストの苦しみが満ちあふれてわたしたちにも及んでいるのと同じように、わたしたちの受ける慰めもキリストによって満ちあふれているからです。(6)わたしたちが悩み苦しむとき、それはあなたがたの慰めと救いになります。また、わたしたちが慰められるとき、それはあなたがたの慰めになり、あなたがたがわたしたちの苦しみと同じ苦しみに耐えることができるのです。(7)あなたがたについてわたしたちが抱いている希望は揺るぎません。なぜなら、あなたがたが苦しみを共にしてくれているように、慰めをも共にしていると、わたしたちは知っているからです。
(8)兄弟たち、アジア州でわたしたちが被った苦難について、ぜひ知っていてほしい。わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました。(9)わたしたちとしては死の宣告を受けた思いでした。それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました。(10)神は、これほど大きな死の危険からわたしたちを救ってくださったし、また救ってくださることでしょう。これからも救ってくださるにちがいないと、わたしたちは神に希望をかけています。(11)あなたがたも祈りで援助してください。そうすれば、多くの人のお陰でわたしたちに与えられた恵みについて、多くの人々がわたしたちのために感謝をささげてくれるようになるのです。 

 
 今日は「コリントの信徒への手紙二」の1章から共に聴きたいと願っています。
 パウロは、手紙の冒頭に挨拶を記し、続いて私たちが信じる神がどんなお方であるのかを明らかにしつつ、神を高らかに褒め称えるということから始めています。それが1章3節の語りです。1章3節にこのように語られています。
 「わたしたちの主イエス・キリストの父である神、慈愛に満ちた父、慰めを豊かにくださる神がほめたたえられますように」。
 「慈愛に満ちた」とは、私たち人間を憶えて、御心を実に豊かに働かせてくださるという神の愛の本質を語った言葉です。ここでの「慈愛」には、「ああ」という感嘆の叫びを上げるを原意とする言葉が用いられており、この世に生きる人間に対して憐れみ・慈しみの叫びを上げるほどに強い想いを抱いてくださっている神の御心が告白されています。こうした神の真実を、パウロは「慈愛に満ちた」と表現しました。
 この神を、パウロはさらに「慰めを豊かにくださる神」と告白しています。聖書での「慰め」とは、傍らに立って語りかける、呼びかけるという意味が原意です。相手と同じ場所・地平に立って、ごく身近に、これ以上ない親しみの内に、私たちの痛みや苦しみにこそ寄り添いつつ、神は私たち一人ひとりに語りかけてくださるというのです。こうしたお方が「わたしたちの主イエス・キリストの父である神」の真実なのだと、パウロはまずこの神を心から賛美しています。
 
 続く4節に、実に印象的な語りが登場します。
 「神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます」。
 3節にありましたように、神は「慈愛に満ちた父」であり、私たちに「慰めを豊かにくださる」お方です。この神は、私たちがどんな状態に置かれるとしても、私たちを決して見捨てることなく、慰めと励ましとを送り続けていてくださいます。
 そして、神を通じて真実の慰めを私たちが深く味わう、こうした体験を通じて、私たちもまた慰めの神の真実を少しずつでも写し出していく、そのような生き方へと導かれていく、こうした証が可能とされるのだとパウロは語り継いでいます。
 
 この語りの背後には、パウロの実に深刻な苦難の体験があるであろうと言われます。パウロは、迫害者から伝道者へと劇的に回心し、キリストを宣べ伝えて歩んだその半生を通じて、多くの苦難・艱難を経験しました。実に厳しく辛い痛みや苦しみの只中に幾度も置かれますが、パウロは同時に神の慰めも豊かに受けたのです。
 パウロの体験について、今日の8節〜10節にも次のように語り残されています。
 「兄弟たち、私たちがアジアで遭った苦難について、ぜひ知っておいてほしい。私たちは、耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失い、私たちとしては死の宣告を受けた思いでした。それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました。神は、これほど大きな死の危険から私たちを救ってくださったし、また救ってくださることでしょう。これからも救ってくださるに違いないと、私たちは神に望みを置いています」。
 この苦難が実際にどんなものであったのか、はっきりとはしていません。しかし、かなり深刻な苦しみをパウロたちは経験したのは確実だと考えられます。
 ある牧者は、じわじわと沈み、死を運命づけられている、そんな難破船に乗っているがごとき切迫する危機を伝えようとしていると、ここを読み解いています。
 これは9節の「私たちとしては死の宣告を受けた思いでした」が過去完了という時制で記されていることに注目してのこと。ギリシア語の過去完了とは、過去の出来事がすぐに終わったのではなく、ある時点まで引き継がれていたことを表すからです。つまり「耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失い、…死の宣告を受けた」という状態はある一定の期間、継続したようなのです。
 そして、パウロと同労者たちの経験した長く続く厳しく辛い経験というものは、アジア地方の教会の人々にも広く知られていたようなのです。このように記せば、手紙を読む者たちが、「あの苦難の体験のことだ。あの苦難は長く続き、パウロたちは死に瀕して苦しんでいた」と理解できるほどに周知の事実だったのでしょう。
 危機的な苦難は一定期間、厳しく継続したのだとしても、同時に大きな恵みも与えられたのだと告白されています。10節に、「神は、これほど大きな死の危険から私たちを救ってくださったし、また救ってくださることでしょう。これからも救ってくださるに違いないと、私たちは神に望みを置いています」とある通りです。
 
 今日注目したいのは11節です。
 「あなたがたも祈りによって、私たちに協力してください。それは、多くの人々の祈りにより私たちに与えられた恵みについて、多くの人々が私たちのために感謝を献げるようになるためです」。
 これは、苦難から自分たちを救った神の恵みに、あなたがたも、また多くの人々も共に与るため、私たちのためにこれまで捧げていてくださった祈りに、さらに熱心に励んでほしい、そのようなパウロの求めです。
 パウロは、コリントの教会がさまざまな問題を抱えていると聞き及んでおり、教会の人々と実際に触れ合いたい、語り合いたい、再度、主イエスの福音とは何かを再確認したいと強く願っていました。しかし、道はなかなか拓かれず、神の許しを得ることができないため、残念ながら愛する教会、そこに集う人々から遠くに離れており、祈りつつ手紙を認めて、愛する人々を諭し、勧めようとしています。
 身体は遠く離れている、しかし神へと祈ることで一つになることが可能なのだと信じての勧めです。この間の継続的苦難に際して、コリント教会をはじめとする同信の仲間たちの祈りによって自分たちは確実に支えられてきた、そうした祈りに感謝しつつ、さらに熱心に祈りを交わしていこう、そのように願って「あなたがたも祈りによって、私たちに協力してください」と、ここにパウロは記したのです。
 こうしたパウロの勧めに触れて、今この時、何をなすべきかを深く教えられたように感じました。この間、共に教会に集うことができないでいる、そんな厳しい状態に立たされている現状を踏まえるならば、ここでのパウロの語り・求めは、いつもにも増して実に深く・重く私たちの心に響きくるように思うのです。
 
 3月以降、「ソーシャル・ディスタンス」という言葉を度々耳にするようになりました。感染症の拡大を防ぐために、人との間に十分な距離を保つこと、「社会的距離の確保」という意味合いで「ソーシャル・ディスタンス」と語られてきました。
 ところが、この「ソーシャル・ディスタンス」という表現は、人と人との分断に繋がるのではとの危惧も語られるようになり、新たに「フィジカル・ディスタンス」という言葉が用いられるようになっています。WHO(世界保健機関)による言い換えのようですが、「フィジカル・ディスタンス」についてこう解説されています。〝フィジカルは「物理的」という意味。社会的距離というと「愛する人や家族との関係を社会的に断たなければならない」と誤解もされかねず、あくまで物理的な距離を置くだけと伝える狙いでの言い換え。WHOの専門家は「人と人とのつながりは保ってほしいと願うからだ」と解説〟。身体的な距離を一定に保つ、でも人と人とのつながりはこれまで通りに保つ、そのことが大切で、また必要であることを私も思います。
 
 5月11日(月)の『朝日新聞』の社会欄に、こんな記事が掲載されました(記事の拡大コピーを掲げる)。「『コ+ロ+ナ』『君』を思う」という記事です。 新聞紙面のイラストにありますように、「コ」「ロ」「ナ」という字をこんなふうに足し合わせると「君」という字になります。これを踏まえてこう詠まれたというのです。
 〝しばらくは 離れて暮らす 「コ」と「ロ」と「ナ」 つぎ逢う時は 「君」という字に〟。
 現状を踏まえて、新たな希望へとこの現実を展開していこうという歌です。私たちは確かに「しばらくは 離れて暮ら」さざるを得ません。教会でも無会衆礼拝となり、どなたともお会いできずにいます。そうした中で、私たちは教会の仲間たち、兄弟姉妹を深く想い、一人ひとりを憶える、そんな日々を過ごしています。
 
 3月の半ば、段々と感染状況が深刻化し、集会も、そして礼拝もどうするか、決断しなければと悩んでいた時期に、早大YMCA信愛学舎の元舎監、私の学生時代の舎監だった方から電話があり、「現状をどう感じている?」と問われたのでした。
 舎監の先生は、現在、早大YMCAの恩師から引き継いだ無教会の集会主宰者として、牧会と説教を担当していらっしゃいます。現状をどう感じているかと問われ、私はこのように答えました。「伝道者とされてからのこの30年、常に『教会・礼拝にみんなで集いましょう』と呼びかけ、毎週、愛する方々の顔が実際に見えることで信仰共同体を実感してきました。それなのに、今回、『共に集うことはやめましょう』と言わざるを得ないことが何とも痛く・苦しい、正直、そのように感じています」。
 舎監の先生は「同感だね」と言われた後に、このようにも語ってくださいました。“でもね、飢えを忘れていたとも感じている。これまでの当たり前、礼拝に集まる、集会で毎週、皆と親しく関わる、それが自然・当然だと思い、一緒に居ることへの求めや飢えというものが希薄だった。でも、それらは自明のことではなかった。こうなって初めて気づくことも多々ある。この気づきを集会のみんなと分かち合って、今後の共同体の糧にしたい”。お話を伺って、まことにその通りだなと思わされました。
 
 先に紹介した短歌に、〝しばらくは 離れて暮らす 「コ」と「ロ」と「ナ」 つぎ逢う時は 「君」という字に〟と歌われていました。「つぎ逢う時は 『君』という字に」…私たちもまた、そのような想いを強くしています。
 加えて、今日のパウロの勧めを踏まえて、私たちは離れてある今をも大切にしたいと願います。日々、「祈りによって、私たちに(互いに)協力」していくことを、私たちの信仰の真実としたいものです。「つぎ逢う時」をはるかに望みながら、いまこの時にも「君」を、愛する方々のこと、同じ教会に集う仲間たち一人ひとりを深く憶えて、神による執り成しと主の守りを互いに篤く祈りたいと思うのです。
 今日の招詞とした「コロサイの信徒への手紙」の2章5節の前半にこのように宣べ伝えられていました。
 「わたしは体では離れていても、霊ではあなたがたと共にいて…」。
 このように語られています。このみ言葉からも励ましを受けたいと願います。
 現状では、確かに私たちの「身体的距離」(フィジカル・ディスタンス)はかなり遠くに隔たっています。感染拡大の状況を改善するために、一定の身体的な距離はこれからも保たねばなりません。しかし、聖書は「霊ではあなたがたと共にい」ることが可能なのだと語っていることを忘れないでいたいものです。「霊による繋がり」、それは祈りを通じて、神の遣わされる聖霊を仲立ちとして、私たちに確かに備えられています。その繋がりは、神にあって決して切れることのない太く・深いものです。
 この時、私たちは「心の距離」にこそ注目し、私たちの信仰の課題を見出したいと願います。「身体的距離」がどれほどのものであったとしても、私たちの「心の距離」は、この状況にあっても、神を媒介にして何らの障壁をも有していません。むしろかつてないほどに近くされています。「霊による繋がり」、祈りの交わりを、聖書の神が支え導いていてくださる、そのように信じて、さらに互いを憶えての祈りを深めながら、この苦難・試練の只中にも信仰共同体の歩みを共に進めていきたいと願います。